『内にある声と遠い声——鶴見俊輔ハンセン病論集』刊行のあとさき
2024年2月に青土社から刊行された『内にある声と遠い声——鶴見俊輔ハンセン病論集』の編集と解説を担当した。鶴見俊輔(1922-2015)といえば、来年の没後10年を控えて、今もその仕事を改めて見直すような研究書が相次いで刊行されている思想家・哲学者である。
鶴見の仕事は、プラグマティズムなどアメリカ哲学の紹介をはじめ、雑誌『思想の科学』の創刊、漫画評論をはじめとする大衆文化論、声なき声の会やベ平連、九条の会といった市民運動など多岐にわたるが、戦後まもなくから晩年までハンセン病問題に取り組んだことも、その仕事の重要な一角を占めている。
本書ははじめて、鶴見のハンセン病問題に関するテキストを一書に編んだものである。
本稿では、本書の編集のあとさきで起こった楽屋話を記してみたい。
重実生哉さんの装幀
表紙は、本の顔である。今回、装幀を引き受けてくださったのは、重実生哉さん。
もともと青土社の本や雑誌の装幀を手掛けてこられた方で、今回もその延長で、担当編集者から依頼が行ったのだった。
オファーを快く引き受けてくださった重実さんから、思いがけない事実が明かされた。重実さんが20代の駆け出しのころ、思想の科学社の地下書庫の一角に場所を借りて、ブックデザインの仕事をしていた時期があったというのだ。
思想の科学社の書籍の装幀を手掛けたこともあり、鶴見俊輔からほめられたこともあるのだという。その本は、羽生康二『昭和詩史の試み』(思想の科学社、2008年)。その書名を聞いて、さらに驚いた。その本は出てすぐ入手して読んでいたからだ。確かめてみると、「装幀-重実生哉」とクレジットがある。
この本の中には、大江満雄を論じた章も収められている。大江満雄は、1950年代、鶴見俊輔をハンセン病問題に引き込んだ張本人なのである。幾重にも偶然が重なって本ができる。
竹﨑和征さんの装画
重実さんが、本の表紙に使用した装画は、竹﨑和征さんの絵画作品である。重実さんは現在、高知県にお住まいで、竹﨑さんも高知県出身(香川県丸亀市でお仕事をされている)。竹﨑さんは、やはり高知県にルーツを持つ甫木元空さんがボーカルをつとめるバンドBialystocksのアルバムに、作品を提供してもいる。私事にわたるが私も高知県の出身ということで、3人が高知県のよしみを感じながらこの本をつくることになった。
今回表紙を飾ったのは、「雨が降って晴れた日」という、2020年に高知県立美術館で開催された竹﨑さんの作品展のメインビジュアルとして使用された特別な作品であった。
竹﨑さんは、鶴見俊輔のハンセン病論集と聞いて、その主題に深い関心を寄せてくださり、破格の条件でこの本への使用の承諾をくださったと聞いている。どんな思いがあったのか、直接お目にかかってうかがってみたいものだと考えていた。
この本が出たのが2024年の2月。
竹﨑さんの突然の訃報が届いたのが6月のことだった。
本が出てから、竹﨑さんの装画はたいへん好評で、いつか直接お目にかかって、お礼の言葉をお伝えしたかった。その機会を失ったのは痛恨事だが、竹﨑さんの作品は、鶴見俊輔の本の表紙として多くの人にその輝きを伝えつづけている。
大江満雄邸のアルバム
大江満雄(1906-1991)のことを記しておきたい。先に記したとおり、大江は鶴見をハンセン病問題に引き込んだ張本人である。大江は、高知県に生まれて、15歳で東京へ出て、プロレタリア詩人として活動した。やがて治安維持法で検挙され、転向。戦争詩を書いた。戦後は、ヒューマニズムを基調とした抒情的思想詩を多数発表している。評論や児童文学の仕事ものこした。
そんな大江が、生涯をかけて取り組んだ仕事が、全国のハンセン病療養所の入所者たちと共に詩を書くことだった。1950年代から1991年に亡くなる直前まで交流はつづいた。
大江が晩年過ごしたのは、茨城県稲敷郡阿見町実穀である。大江からハンセン病療養所の詩人たちに届いた手紙を見せてもらったことがあるが、その差出人住所に、「じっこく」とひらがなで書かれていたのが印象的である。この家を大江は「風の森」と名付けて、終の棲家とした。
大江邸は、大江が亡くなったあと、同居していた妻のマツさんがこどもたちの住む都内へ越して、空き家となっていた。さらに近々、取り壊されるという。
主な蔵書と大江宛書簡は、これまでご親族から高知県立文学館に寄贈され、きちんと整理されている。そのほかに重要なものが残っていないか、最後に確認しませんかと声をかけていただき、ご親族同伴のもと訪問したのが本書刊行直後の2月のことであった。
これは、書くかどうか迷った末、思い切って書くのだが、大江邸といっても、物置小屋と見まがうばかりの質素な建物なのであった。大江ほどの仕事をのこした詩人が、世俗の名声や財産からはるか無縁の暮らしをしていたという事実を、ここに書き記しておきたい。
さて、建物の内部には、わずかに雑誌がのこされていた。高知県立文学館に寄贈されたなかからどうやら漏れたらしい。ハンセン病療養所の長島愛生園の機関誌『愛生』や、栗生楽泉園の機関誌『高原』などもある。二つの園で大江は、詩の選者をしていた。
それから、日記を含むメモ類が残されていた。大江の文字は達筆すぎてすぐには読めないのだが、これも一級の資料といってよい。今後の読解と分析に期待してよい。
さらなる発見は、写真アルバムが残されていたことで、相当若いころのもの(20代くらいに見える)をはじめ、大江が多くの詩人らと写ったものや、全国のハンセン病療養所の仲間の詩人たちと写ったものもそこには含まれていた。
極めつけは、若き日の鶴見俊輔と妻の横山貞子のツーショット写真である。鶴見は、大江との縁で、各地の療養所の詩を書く入所者と交友を結んだ。その一人が長島愛生園の志樹逸馬で、生前、幾度か会いに出かけている。さらに1959年に志樹が亡くなると、その翌年、墓参もかねて、新婚の妻・横山貞子とともに長島愛生園を新婚旅行で訪れている。
この写真は、そのときのものだ。背後に、「芳津寮」という札のかかった木造の建物が写っており、これは志樹逸馬が生活していた療養所の寮舎の名前と一致する。
それにしても、大江満雄のアルバムに、鶴見俊輔の写真が収められていたのは興味深い。それだけ、大江は鶴見のことを大事な友人と考えていた証左といえないだろうか。
じつは、今回の本を編集するにあたって、6つの章の扉それぞれに、関係する写真を載せたいと考え、写真を集めていた。療養所訪問時の写真がないかと、鶴見俊輔のご子息の鶴見太郎さんに確認をお願いしていたのだが、写真は見つかりませんでしたとのお返事であった。このたび、大江邸のアルバムから、鶴見・横山夫妻が長島愛生園に新婚旅行で訪れたときの写真が出てきたことを報告すると、「写真はこちらのアルバムにもあることを確認しました」とのお返事であった。
今回、この本には掲載することがかなわなかったが、いつか、日の目をみることがあるのではないか。鶴見俊輔とハンセン病療養所との深い関係を証言する貴重な写真の発見であった。
瀬戸内国際芸術祭の皆さんの前で
本書が刊行されたことで、「鶴見俊輔とハンセン病問題」のテーマで講演の依頼が舞い込んできた。依頼をくださったのはアートディレクターの北川フラムさんだ。
北川さんとは以前、北川さんが館長をつとめる市原湖畔美術館で、民俗学者・宮本常一に関する展示があったときにトークイベントのゲストとして呼んでいただいて以来の顔合わせである。
北川さんが総合ディレクターをつとめる瀬戸内国際芸術祭では、ハンセン病療養所の大島青松園が会場のひとつとして選ばれている。そのボランティアサポーターに、こえび隊というグループがあって、若いメンバーたちが「大島勉強会」を立ち上げるから、そのゲストスピーカーとして今度の本の内容を主題に話してほしいという依頼であった。
若い人たちが、ハンセン病問題に出会い、問題に取り組むうえでのヒントが、今度の本には満載なのである。
2024年10月、私は香川県高松市で行われた勉強会の当日、次のような話をした。
隔たりの自覚と「自分の問題」
若い人たちが、何らかの社会問題に参加する場合、どのような動機から行動を起こすのだろう。鶴見は、生涯にわたってハンセン病問題と関わり続けたが、次のテキストに見られるように、「隔たり」の自覚を手放さなかった。
「日本の国の中で病いにくるしみ、今も親族と友人からはなれてくらす人、後遺症のため異国にくらすような思いでこの国を見ている人、日本の国のさかいの外にあってこの病苦とともに生きている人から私が今もへだたっていることを、自覚する。しかし、むすばれていないことの自覚が、むすびの家をめざす心を、今なお固定から保つことを信じる」(10頁)。
多くの社会問題は、その被害当事者でない限り、なかなか自分の問題とはならない。一方で鶴見は、一見矛盾するようだが、「自分の問題」から解くことを強調している(340頁)。
鶴見の場合、精神科病院に入院していた自己の体験が語られる(268頁)。鶴見が鬱病で苦しんだことは、他の著作のあちこちで語られていることがらなのだが、それがハンセン病問題への関与に、何らかの影響を与えたことを示唆する発言がつづく。
「自分が自分としてちゃんと生きてないし、生きているために彼らと共に生きていると感じることが、自分らしさを回復するために役に立つ、という考え方なんです。/差別を越えて生きていく姿勢を持とうっていうところは、ここなんです」(270頁)。
鶴見自身の「自分の問題」から、差別解消の取り組みへの接近を、ここに見ることができる。
ハンセン病問題のような社会問題がすぐには「自分の問題」とはならず、ほかの実践者のようにはすぐさま行動を起こせないときにはどうしたらいいのか。
「内なる声が聞こえないとき、やっぱりそのときには待つほかない、待つことはできる、一緒に待ちましょう」(305頁)。
鶴見はこのように述べ、「自分の問題」からやがて社会的な問題へと身を起こそうとしている人びとを、穏やかに見つめている。
サークル論・運動論をアップデートする
高松での講演はつづいている。鶴見が生前、上梓した唯一のハンセン病問題の単行本は、ハンセン病回復者の宿泊施設「交流(むすび)の家」を奈良市に建設する運動を主題としたものだった(木村聖哉との共著『「むすびの家」物語-ワークキャンプに賭けた青春群像』岩波書店、1997年)。
鶴見はこの建設運動が始まった当時、同志社大学の教授をしており、そのゼミ生を前に、ハンセン病が治って園から外出許可をもらった回復者が、外出先のホテルで宿泊拒否にあう出来事に立ち会った体験を話した。すると、ゼミ生の中からそれなら自分たちで宿泊施設をつくろうという運動が起こるのである。1963年のことだった。
建設途中で住民の反対運動が起こり、現場を取り囲まれると、「皆さんが納得するまで工事は進めません」と言って、学生たちは住民が見ている前で、作りかけのブロックを壊して更地に戻してしまい、以後、住民への説得を粘り強く行い、ようやく1967年にその完成を実現したのである。
鶴見はこれを「もうひとつの学生運動」と呼び、その経験から得たことを、それまで自身が関心を持って論じてきたサークル論や運動論として、アップデートしている。
「ひきあし」のある運動(28頁)、「すきまのある集団」(28頁)、「ええかげんなものを、尊重しなくてはいけない」(31頁)、「流派の交流」(47頁)という文中に示されたキーワードだけでも、その内容は推し量れるだろう。どんな組織にも起こりうる硬直化を回避する知恵がつまっている。
近年、鶴見の運動論の再検討が始まっているが(寺田征也『「社会学」としての鶴見俊輔─「記号の社会学」の構想と意味の多元性』晃洋書房、2024年など)、その中で「交流の家」建設運動の検討はまだなされておらず、今後本書から得られる知見は計り知れないのではないだろうか。
特に、こえび隊のように、日々現場で実践している若者たちが、鶴見のサークル論・運動論に何らかのヒントを得るよう期待がかかる。
時代に即した語り方の変化
ハンセン病患者・回復者への差別・偏見をどのように克服していけばいいか、という問題を、鶴見がどのように考えていたか。その発言が、時代によって変化していることも、本書を編集している過程で気が付き、興味深いことであった。1968年の講演では、次のように述べている。
「らいの後遺症で手が曲がったりすると、その後遺症に対する偏見というのがいろいろありますね。それをどういうふうに越えるかという問題なんですが、相手と付き合うっていうのかな。わたくし的な付き合いを持つっていうことから、自然に越えてしまう、それがもっとも自然なんじゃないでしょうか」(260-261頁)。
患者・回復者との直接交流することで、差別・偏見を克服することが目指されている。当時、全国の国立13療養所の入所者の合計は1万人を超えていた(10,014人。森修一、阿戸学、石井則久「国立ハンセン病療養所における入退所動向に関する研究-1909年から2010年の入退所者数調査から」『日本ハンセン病学会雑誌』第89巻第2号、2019年)。直接交流によって問題解決を目指すことは、現実的で具体的なプログラムであったといえる。
やがて時代が下り、患者・回復者の減少する2000年代に入ると、かれらがのこした言葉から受け取ることへと重心を移している。
2001年の講演では、大江満雄が編集したハンセン病療養所入所者の合同詩集『いのちの芽』に集った詩人である志樹逸馬、谺雄二、島比呂志をはじめ、C・トロチェフ、島田等といったハンセン病文学の書き手たちとその作品の紹介に大半を費やしている。そして次のように講演を締めくくっているのである。
「日本国民はどういうふうにして人間になれるのか。じつはそれこそが最大の問題なんです。私は、ハンセン病の文学が、人間になるその道しるべをつくっていると思いますね」(360頁)。
この講演が行われた2001年の入所者数は4,209人。状況の変化に応じて、臨機応変に課題解決に取り組むプラグマティストらしい一面を見せる。
ハンセン病文学の作品は豊富で、およそ1,000タイトルの単行本がのこされている。いまなお、私たちがハンセン病問題への接近を可能にする糸口がここにある。
講演の翌日、こえび隊の笹川尚子さんの案内で大島青松園に渡った。2010年の瀬戸内国際芸術祭で展示されて以来、多くのアーティストがこの島で回復者と交流し、その証言記録の中から生まれたアート作品をかつての寮舎で展示している。
そのひとつひとつを見学しながら、こえび隊の皆さんは、ハンセン病の被害当事者が自身の体験を語れなくなる将来を見据えて、芸術作品を通してハンセン病問題を伝える努力を日々していることを知った。
鶴見がいうように、かれらがのこした言葉から受け取る、という実践が、はからずも芸術作品にかたちを変えて行われている現場に立ち会うこととなった。
被害を語れる当事者がいなくなったとき、かれらが残した芸術活動のしるしは、記憶の継承の主要な力となるのだろう。ちなみに、2024年5月1日現在の全国の国立療養所13園の入所者は718人、平均年齢は88.3歳である。
鶴見俊輔のハンセン病論集は、数ある関係者とのつながりでかたちとなり、刊行されてからも、この問題に近づく人びとに、考えるヒントを与え続けている。
[書き手]木村哲也(国立ハンセン病資料館)