前書き

『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』(原書房)

  • 2024/01/07
アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王 / ルーシー・ワースリー
アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王
  • 著者:ルーシー・ワースリー
  • 翻訳:大友 香奈子
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2023-12-19
  • ISBN-10:4562073624
  • ISBN-13:978-4562073627
内容紹介:
全世界に読者をもつ巨匠アガサ・クリスティー。しかし彼女は職業を聞かれれば無職と答え、書類には主婦と記入した。当時の社会階層やジェンダーのルールにより、平凡なふりをして生きた20世紀の偉大な作家の一生に光を当てる。
全世界に読者をもつ巨匠アガサ・クリスティー。死後50年以上経っても、聖書とシェイクスピア作品の次に売れているという。しかし彼女は職業を聞かれれば「無職」と答え、公式な書類には「主婦」と記入した。当時の社会階層やジェンダーのルールにより、平凡なふりをして生きた20世紀の偉大な作家の一生に光を当てた書籍『アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王』より、序文を公開する。

ベストセラー作家は平凡なふりをする

アガサ・クリスティーが列車で静かに座っていると、見知ぬひとが自分の名前を言うのがふと耳に入った。
彼女の話では、同じ車両で「ふたりの女性が、わたしのうわさをしていたのよ。ふたりとも、わたしのペーパーバックをひざにのせてね」。その女性たちは、品のある初老の同乗者が当の本人だとは思いもせず、世界一有名な作家のうわさ話を続けた。「聞いた話じゃ」とひとりが言う。「彼女、大酒飲みなんですってよ」
わたしはこの話が大好きだ。なぜなら、アガサ・クリスティーの人生をよく言い表しているからだ。
第一に、彼女はこの逸話を、1970年に80歳の誕生日を祝って公表されたインタビューで語っている。なんと波乱万丈の長い人生を送ったことだろう!
アガサは豪華な後期ヴィクトリア朝の世界に生まれた。一家は富と、舞踏室つきの家と、家事をするたくさんの使用人を受け継いだ。やがてそのすべてを失い、アガサに自分で生計を立てさせることになる。彼女の80年間は、2度の世界大戦と、大英帝国の衰退と、ほぼ1世紀にわたる激しい社会の変化をくぐり抜けてきた時代でもあった。そのすべてを80冊の本に記録した。それらはやみつきになる軽い読み物にとどまらず、歴史家にとってのすばらしい資料でもある。
第二に、列車の女性がふたりともアガサ・クリスティーのペーパーバックを持っていたという事実だ。もちろんそうだろう。彼女の本はほんとうに至るところにあったのだから。とくに第二次大戦後に〝クリスマスにはクリスティーを〟が毎年の恒例になったころには。クリスティーはシェイクスピアや聖書に次ぐベストセラー作家なので、そんな常套句が広まった。でも、わたしが興味を持ったのは、彼女がその地位についたというだけではなく、女性としてその地位についたということだ。しかも、小説家に留まらず、歴史上最も多く上演された女性の劇作家でもあり続けた。とても成功したものだから、人々は彼女を新しい境地を開いたひとではなく、名物だと考えがちだ。だが、彼女はそのどちらでもあった。
第三に、誤解だ。誤解がやたらとたくさんある! 列車の女性たちに戻ろう。〝大酒飲み〟どころか、アガサは実は、絶対禁酒主義だった。ワインを味わうこともなく、お気に入りの飲み物は混ぜ物のないクリームだったのだ。それなのに女性たちは、あの作家はアルコール依存症の酔っぱらいで、不幸にちがいないと決めつけていた。
それから、列車のなかには、用心深いアガサそのひともいたのだ。その場にいながら気づかれることなく、人生を芸術に利用していた。ほかならぬこの自分が酒飲みだと言われているのを聞いた作家の話は、アガサの小説『死者のあやまち』に生かされている。小説のなかの自分の分身である、探偵小説家のアリアドニ・オリヴァ夫人の身にふりかかったこととして。
この場面は、人間としてのアガサ・クリスティーついての本質的な真実も含んでいる。そう、彼女は中年を過ぎたほぼすべての女性と同じく、見逃されやすかったのだ。でも、アガサはあえて平凡に見えることを利用していた。それは、ほんとうの自分を隠すために、念入りに作りあげたパブリック・イメージだった。
もし列車のふたりの女性たちが名前を尋ねたとしても、彼女は「アガサ・クリスティー」と名のったりはしない。「ミセス・マローワン」と答えただろう。性急な結婚をした14歳年下の考古学者からもらった名前だ。
職業を訊かれれば、無職ですと言った。公的な書類に職業を書くことを求められたとき、ざっと20億冊もの本を売ってきたこの女性は、いつも〝主婦〟と書いた。そして、とてつもない成功を収めたにもかかわらず、第三者と傍観者の観点を持ちつづけた。自分を定義しようとする世界を避けて。
この本では、どうしてアガサ・クリスティーは、実際はさまざまな境界を崩していきながら、あくまで平凡なふりをして人生を過ごしたのかということを掘り下げていきたい。彼女はかつてこう言った。「世界中でわたしほど、ヒロインを演じるのに不向きなひとはいないわ」この考え方は、自分自身の極端に控え目な性格によるものもある。だが、女性ができることとできないことについて、従わざるを得ない原則がいくつもある、生まれついた世界とも大いに関係があった。これは、20世紀の物語と絡み合う物語を持つ、ひとりの女性の人生を描いた歴史的傾向のある伝記である。
アガサ・クリスティーについて書いていると言うと、よく最初に訊かれるのは、彼女が失踪して、全国的に死体の捜索が行われた、1926年のあの劇的な11日間のことだった。夫を殺人犯に仕立て上げるために隠れたのだと言われることが多い。それはほんとうなのだろうか?
アガサはその後死ぬまで、この悪名高い出来事について沈黙を通したとよく言われる。でも、それはまちがいだ。わたしは実際に彼女が話した驚くほど多くのことばをつなぎ合わせてみた。それらを注意深く見れば、いわゆる謎の多くが次第に解けるものと信じている。
アガサは20世紀の女性についての数々のルールを打ち砕いた。彼女と同じ世代と社会階級の女性たちは、ほっそりしていて、稼ぎがなく、たくさんの子どもを盲目的に愛し、絶えずほかのひとのために自分を捧げることを期待されていた。
このなかでアガサが完全に果たしたのは、最後のひとつだけだ。自分の最善のもの――努力、創造力、天才的なひらめき――を読者に捧げたのだ。今もなお彼女が読者に愛されているのも当然だ。


当時の最先端をゆくクリスティー作品

今日では、女性を崇拝する必要はない。そしてそれは、アガサ・クリスティーを構成する矛盾のかたまりのどこかにとても暗い心があったという事実に向き合わなくてはならないということだ。子どもも人殺しができる物語を考えついたというだけではない。彼女の作品に、今日では受け入れられない人種や階級についての見方が含まれるということでもある。
でも、だからといって、舌うちをして、目をそらすべきだというわけではない。これは重要なことだ。なぜならアガサ・クリスティーの作品は、ある種、典型的な英国人の世界の見方を簡潔に表すものになっているからだ。小説にしばしば現れる彼女と同じ階級や時代の偏見は、20世紀の大ブリテン島の歴史の一部なのだ。
そして表面的には保守的な作品であるにもかかわらず、アガサは読者の世界の認識を、前向きな方法でひそかに変えていったとわたしは信じてもいる。彼女の小説は、背が低くて女性っぽい、おかしな名前の〝外国人〟が、腕力ではなくて頭脳を使って悪を打ち負かせることを証明している。はらはらさせる老婦人でさえ、悪人に天罰を与えることができる。あの子どものいないひとり者たち――エルキュール・ポワロもミス・マープルも独身――は、生きがいになるような、従来の家族をまわりに必要としていない。
最後にはっきりさせておきたいことは、刊行当時の読者たちにとって、クリスティー作品は〝郷愁を誘うもの〟でも〝伝統〟と関係のあるものでもなかったということだ。子どものころ、わたしはよく彼女の小説を心地よく浄化したものをテレビで見た。だが元の小説は、過去と決別した20世紀の作品だった。クリスティー自身はハワイにサーフィンに行き、速い車を愛し、新しい心理学に興味を持つという〝現代的〟な生活をしていた。だから彼女の小説が出版されたとき、それはやはり読者をわくわくさせる生き生きとした〝現代的な〟ものだったのだ。
この本でわたしたちは、絶えず非難され、絶えず誤解されて、偉業が平凡な見かけに隠れがちな、20世紀の偉大な作家のひとりに出会うことになる。

[書き手]ルーシー・ワースリー(歴史家)
アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王 / ルーシー・ワースリー
アガサ・クリスティー とらえどころのないミステリの女王
  • 著者:ルーシー・ワースリー
  • 翻訳:大友 香奈子
  • 出版社:原書房
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2023-12-19
  • ISBN-10:4562073624
  • ISBN-13:978-4562073627
内容紹介:
全世界に読者をもつ巨匠アガサ・クリスティー。しかし彼女は職業を聞かれれば無職と答え、書類には主婦と記入した。当時の社会階層やジェンダーのルールにより、平凡なふりをして生きた20世紀の偉大な作家の一生に光を当てる。

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