ほとんど大したことも起きないのに、いざ粗筋を説明しようとすると手強い、筋をかいつまんで説明することを徹底拒否する語りによって成立している、そのことがまず素晴らしい。年の割に落ち着いて見えるから周囲から「果絵さん」と「さん」づけで呼ばれる語り手〈わたし〉の日常を、現実に起きていることの描写と、〈わたし〉の心理描写によって綴っているわけですが、その描写のいちいちが不穏なくらい抜け目がないんです。もともと柴崎さんといえば、視点人物が見たもの、聞いたものを、たとえそれがささいなものだとしても、いや、ささいなものだからこそ丁寧に描く姿勢が特徴的な作家だと思うんですが、『星のしるし』ではそれが常軌を逸しているというのかな。読んでいると不安になってくるほどなんです。たとえば、こういう描写にわたしはおののくわけで。
皆子(筆者註=果絵の友人)は、こたつを囲んでいる男三人を見た。ビールの空き缶やワインの瓶がこたつの上に集まりはじめていた。皆子の目は、羨ましそうというのでもなかったし、呆れているのともちがって、ただちょっと違和感のあるなにかをよく見ようとしているみたいに見えた。わたしは、テーブルの上に転がったいくつもの封の開いた食料品を除け、皆子が持ってきたカステラの包みを広げた。底の薄い紙を剝いてかじり、茶色いところの中に入っている粗目(ざらめ)を噛んだ。
果絵は週末になると恋人・朝陽の家に泊まるのを習慣にしてて、いろんな人の溜まり場みたいになってるその家での友人たちとのやりとりが小説の半分くらいを占めています。で、そのすべての場面でこんな調子なんです。
朝陽にはこうやって家の中に誰かのものが増えていくのは普通のことなんやなあと思い、わたし自体もそんなもんやろうかとときどき考えたりするのだけれど、すぐにこの部屋に馴染んでしまうほかのものたちと仲間だったらそれはそれでいいのかもと思うくらい、わたしはここにいるのが好きみたいだった。
ここも感服したなー。普通だったら〈好きだった〉と書くところに〈みたい〉と入れるのが凄い! たいていの作家ならすっ飛ばすような描写や言葉を、柴崎さんはないがしろにしない。なのに、小説自体は長めの中篇くらい。つまり、足し算ばかりじゃなく、引き算されてるところもあるってことです。そして、その引き算されてるのが何なのか、どこなのかは実作者ではないわたしにはわからない。柴崎さんの小説は読みやすさに引きずられて速読してしまうと、うっかり気づかないままになってしまうけれど、実はかなりトリッキーな語りによって成立しているんです。
この小説にはUFOや占いを扱って、信じる信じない、見える見えないといった心理と知覚の不思議についての考察も織り込まれていて、それにまつわるかなり不穏かつ破調の展開もあり、興奮させられるんですが、残念ながら紙幅が尽きました。ただ、これだけは言っておきとうございます。芥川賞の下読みの目は節穴だね、いつものことだけどもさっ。柴崎さんの目やにでも煎じて呑むがいいよ。
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