作家論/作家紹介
野坂昭如
人生の野坂昭如
一番最初に読んだのが文庫版の『真夜中のマリア』で中学生のとき。クスノキという同級生に借りて読み、ぶっ飛んだ。知らないことがたくさん書いてあった。異様な迫力があった。一読してからクスノキに返し、今度は自分で買って繰り返し繰り返し読んだ。それから野坂昭如の小説しか読まない。『エロ事師たち』を読み、『アメリカひじき・火垂るの墓』を読み、『受胎旅行』を読んだ。自分はそれから五年後、同級生がみな胸に希望を抱いて進学していくのと裏腹に場末の小店で歌を歌って三千円を貰(もら)うパンク歌手になりさがるが、まあそれははっきりいってこれらの小説を読んだからで、養子にとった女児の股間を超スローで日々撮影している男やあほの女とその実父が男女のことを行う様を映画に撮るなどという小説を中学生が読んでいてその後、満足な人生が送れるわけがない、というか、いま書いて気がついたが、自分は別段、映画好きというわけでもないのに気がつくと二十歳くらいからずっと断続的に映画の仕事をしているのはこの読書の体験が関係しているのかも知れないいずれにしてもやはり中学生はもっと観念的な或(ある)いは翻訳が下手でなにを言ってるか分からぬような人生訓が連なったような本を読むべきであるがそんなことをいまいってももう遅い。そうこうするうちにというかまあ話は前後するがそんな風に野坂昭如ばかり読んでいるうちに高等学校へ進学せんならんということになったが、『マッチ売りの少女』。なにも現実にマッチ売りの少女と交際をしたいと思ったわけではないが、釜ヶ崎のはずれにある高校、やはりこういう場所の方が小洒落てファッショナブルな場所より格好いいと思いこんで選び、アンコや体格のいい男娼の人などが屯(たむろ)する小便くさい駅舎を通って通学する。
それで十七歳くらいから怠学怠業。というのが例えば『プアボーイ』など。三高目指して頑張っているはずの少年がどういう訳か町歩きをして大福を食ったり珈琲を飲んだりして勉強をしなくなる。例えばこれが宮本武蔵(むさし)みたいな話であればそんなことはなく、剣術が上手になりたいと思った人は真面目に剣術の稽古をして、しかもそれだって普通の稽古ではない、山野を駆け巡り、手取にして引き裂いた獣肉を生食して糊口をしのぎながら断崖絶壁から急流目がけてダイブ、なんてことをして、超人的な剣客になって通常の凡庸な剣客をがんがん斬り殺す。すっごいやんけー。強いやんけー。と思って自分らは賞賛する。これは実に分かりやすい話で、なんとなれば強くなりたいと思った奴がその方向に努力して強くなるのだからなんらの矛盾もないというか納得できる話である。ところがその逆、強くなりたい、と念願した人間が強くなるべく努力をせず、焼き芋を食って放屁をしたり婦女子とばかげた振る舞いに及んでいるというのは訳が分からない。自分、つよなりたいんちゃうん? と言いたくなる。
知った人に内装業を営んでいる人があって、その人に聞いた話だが、彼は元ミュージシャンで最下層のミュージシャンからしばしば連絡を受けるのだという。なにを言ってくるのかというと、「自分らは最下層のミュージシャンなので銭がない。あーたは手広く内装業を営んでいるというじゃない。よかったら臨時に雇ってくれませんか。平たく言うと、アルバイトをさせて貰えませんか」と言ってくるのだという。そこで、まあ、そう言われりゃしょうがない。じゃあ何時幾日、それらしい恰好をしてどこそこの現場に来て下さい、と引き受け、そのつもりで段取りをして現場に行くと、待てど暮らせど彼らは来ない。員数が揃わないと仕事に支障がでる。なめやがって。クソ野郎が。遊んでんのとちゃうぞ、ぼけ。激怒して連絡を取りいったいなにをしているのだ、と問うと、まったくもってなんという体たらくであろうか、マリファナを吸引の挙げ句にライスカレーやパフェを食って眠っていたのだという。え? それどういうこと? つまり自分らはあーたがたは仕事をしたいと言っていたのと違うの? だから仕事を遣った。にもかかわらず仕事に来ないでマリファナを吸って眠っている。これどういうこと? おかしいじゃないの。矛盾してるじゃないの。いったいどうなっているの? 訳が分からぬよ、俺は。と悩む、という話である。
こういう風に話をしてしまうと、超人的剣客の方が筋が通っていて、下層ミュージシャンの振る舞いは奇怪に思えるが、しかし現実に自分が超人的剣客になるべく超人的努力をしなければならぬ破目に陥った場合、そうして苦しい修行をすることの方が感覚的に理解しがたく、人間というものは必ずや、人里の周辺をうろつき、マリファナを吸って大福餅を買い食いしたり、女郎買いにいったりするものだ、ということを自分は、「話」のなかで読んでしまったのであり、あ。そうか。と思った。うわっ。うわっ。うわっ。とも思った。
つまり人間というものは訳の分からぬ筋の通らぬことをするもので、受験勉強をすると宣言し、自分でもそのつもりでいながらまったく勉強をせずに盛り場をほっつき歩くもの、という思いこみが自分に生じ、自分も人間である以上、まあ怠学怠業をするのが自然な流れだろうと思ってしまって、しょうがないので学校近くのカフェやお好み焼き屋にいりびたってちっとも勉強をしなかったのである。
そんなことをしながらも内心に、とはいうもののやはり努力はしないといけないのではないだろうか。だいたいにおいて人間というものはそういうものだからなどと高校生のくせにおさまったような顔をしてモダン焼きをちょぼちょぼ食ってるが、野坂昭如の小説の登場人物はだいたい最後は死ぬし、まあ人間は誰でも死ぬけれどもその死に方たるや、焼死その他のいわゆるところの野垂れ死にが多く、まあよくて腹上死。君はそういう死を迎えたいのか? 孫や子に囲まれて畳の上で往生したくないのか。安楽な老後を送りたくないのか? という焦りが生じて、しかし怠学怠業が癖になってしまっていてなかなか学業の業界に入っていけず、ますます焦り、ドン・バン・ブリードという米国人の拵(こしら)えた、「ドロップアウトブギー」という曲を聴いて悶絶するなどするうち、焦燥感と徒労感と虚脱感が渾然一体となったパンクロックという音楽に出会って、こらええやんこらいけるわ。と思って自分はパンク歌手になったのである。
まあ世間的に言うと若い身空でパンク歌手になりさがるなどというのはもう実になさけないことであるが自分にとっては慶賀すべき事で、あのまま漫然と怠学怠業を続けていたらどうなっていたか知れぬが、そこを一歩前に進み死中に活を求めるの気慨をもってパンク歌手になったのが結果的によかったというか、山を駆け巡って獣肉を生食するなどといった超人的な修行などなにひとつしなかったというのに、一年かそこいらでレコードデビューが決まったというのは才能があったのか運がよかったのか、まあ向いていたのだろう、よかったよかった、と喜んで、さあいつまでも人間というものはやろうと思ったことと反対のことをやって滅亡するものだ、なんて分かったようなことを言っていないで、少しばかり努力をしよう。努力してこそ初めて未来は開ける、道は開ける、と考え直し、パンクロックに本腰を入れることにした。
パンクロックとはあらゆる現実を否認しながらその果てに現れる虚無と戯れるがごとき音楽で、歌詞等も現実をあほぼけかすひょっとこと罵倒するような歌詞が多く、しかしながらただ罵倒するのもなんなのでそこに税金を負けろとか戦争反対とか風呂で屁をこくなといったスローガンを混入させておく場合が多い。なかには本気で言ってるアホもいるけれども。そこで自分は当時住んでいた湿度の高いアパートの床に転がって天井を見ながら歌の文句を考えた。
文句。文字通り文句。外国の新聞を読むと某レコード会社は某に一億ポンドの契約金を支払ったなんてな記事がしばしば掲載されるが、なんですか? 日本のレコード会社は? 契約金どころか印税のアドバンスすらまともにしない。おかげで俺はこんなボロいアパートに住んで菓子パン食って餓えを凌いでいる。それというのもレコード会社ひいては社会が悪いからで、腐った業界の奴らになにが分かる。もっと俺をフィーチャーしろ! てなことを考えたがいまひとつ調子が出ないというか、こんなものは単なる不平不満であって、虚無が現れるどころか、ただただ寂しく悲しくなるばかりで面白くもなんともない。なめやがってクソ餓鬼がっ。ちょっとインターバルを置く意味で読書でもしたろうか知らん。と次の間、くすんだような赤のピータイルのところどころ剥がれた腐ったような部屋に立って本棚から取り出した本が『騒動師たち』。話そのものもそうだけれども、米国在住の邦人女性前衛芸術家を正確に描写したり、「ええ若いもんが、バラの花咲いてうれしいとかなんとか泣きごという」なんて文言があって、俺のフィーチャーされなくて悲しいというのも泣き言だ、と思った瞬間、待望の虚無感が到来したけれどもそれを歌にする気にはいっこうにならず、そのまま読み続けて終わったら今度は、『骨餓身峠死人葛』を読んでますます虚無的になってパンクにも身が入らず、ずっと下積み。大阪を退転して東京へ行くという段になってまだ新幹線のなかで『てろてろ』を読んでいて、また下積みで、でもそんな生活の感じも小説には書いてあって人生のいろんな局面で読んでいた野坂昭如の小説。
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