作家論/作家紹介

陸沈の思想――幸田文、志村ふくみ、岡部伊都子

  • 2017/10/09
長らく借りているのに気がさして幸田文全集をやっと図書館に返した。その夕、閉まりぎわの穴八幡の古書市に同じ縞の布装函入りの全集を見つけ、乏しい財布をはたいて買った。イタいな、とうれしいなを交互につぶやいて家に帰ると、「幸田文はお好きですか」と、この原稿の依頼があり、二つ返事で引き受けた。

谷中という土地柄、露伴に魅(ひ)かれる。明治二十四、五年ころ谷中に住み、道すがらに眺めた塔の物語が『五重塔』である。しかし他の長編はまるで歯がたたぬ。せめて娘・文さんのエッセイに親しみ、露伴を知ろうとした。『みそっかす』で目を瞠(みは)り、『ちぎれ雲』『葬送の記』でガツンとやられ、『おとうと』や『流れる』でまいった。

没後二年のことし、エッセイ『木』(新潮社)『崩れ』(講談社)、小説集『台所のおと』(同)と次々刊行された。生前、未刊であったが待たれていた本である。

『木』は一九七一年から一九八四年にかけ、丸善の『学鐙』にとびとびに連載された。この冒頭にあるエゾ松の倒木更新の話を、高校生の私は講堂で文さんからじかに聞いた覚えがある。七〇年代の初めのことか。清楚(せいそ)で気品ある様子ながら、講演は打ち込んで華やぎのあるものだった。

木 / 幸田 文
  • 著者:幸田 文
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(172ページ)
  • 発売日:1995-11-30
  • ISBN-10:4101116075
  • ISBN-13:978-4101116075
内容紹介:
「樹木に逢い、樹木から感動をもらいたいと願って」北は北海道、南は屋久島まで、歴訪した木々との交流の記。木の運命、木の生命に限りない思いを馳せる著者の眼は、木をやさしく見つめ、その本質のなかに人間の業、生死の究極のかたちまでを見る。生命の根源に迫るエッセイ。

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一方、『崩れ』は一九七六~七年『婦人之友』に十四回連載された。『木』はやさしいテーマで版を重ねているようだが、『崩れ』はこわいテーマで一見とっつきにくい。

しかしこれはじつに面白い本である。七十二歳の女性がなんで山奥の崩落などを見にゆくのか、それだけでも興味津々ではないか。

崩れ  / 幸田 文
崩れ
  • 著者:幸田 文
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(206ページ)
  • 発売日:1994-10-05
  • ISBN-10:4061857886
  • ISBN-13:978-4061857889
内容紹介:
山の崩れの愁いと淋しさ、川の荒れの哀しさは捨てようとして捨てられず、いとおしくさえ思いはじめて…老いて一つの種の芽吹いたままに、訊ね歩いた"崩れ"。桜島、有珠山、常願寺川…瑞々しい感性が捉えた荒廃の山河は切なく胸に迫る。自然の崩壊に己の老いを重ね、生あるものの哀しみを見つめた名編。

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先年来老いてきて、なんだか知らないが、どこやらこわれはじめたのだろうか。あちこちの心の楔(くさび)が抜け落ちたような工合で、締りがきかなくなった。慎みはしんどい。締りのないほうが好きになった

離婚して子をつれて父の家に戻ったとしても、幸田文はつつしみ深い家庭婦人として生きてきた人である。父・露伴の物の見方、生活のしかたを厳しく身につけながら、あくまで生活に腰を沈めたところから発声し、それが幸田文の追随を許さぬ固有の場所だった。

「狭く細いのが本性」という人が、大きな自然につかまったのはどうしてか。

あるとき安倍峠の樹木に会いに出かけた。山菜摘みを楽しみ新緑に目をなごませ、うっとりした。そして「車から足をおろそうとして、変な地面だと思った。そして、あたりをぐるっと見て、一度にはっとしてしまった。巨大な崩壊が、正面の山嶺から麓へかけてずっとなだれひろがっていた」。

気が呑(の)まれる。ぎょっとする。そうした自分に気づくと、そればかり気になってつきとめずにはいられなくなる、というのが、この人の動き方である。あとがきで娘の玉さんが「母の性格からいってただの好奇心などという生やさしいものでは無い」と書いておられる。

崩れの憂愁を見た翌日は同じ風景を見ても、心がまるで違ってしまう。川の蛇行、水量、水勢、川床の石、防災堰堤が気になりだす。

川だって可哀想だ。好んで暴れるわけではないのに、災害が残って、人に嫌われ疎んじられ、もてあまされる

崩れの淋しさ、困りものとされる暴れ川のかなしさ、というところから「ものの種が芽に起きあがる」。

こうして著者は、大谷、大沢、鳶(とび)山、稗田山、松之山町、日光男体山、桜島、有珠山の崩れや噴火を憑(つ)かれたように見て歩く。これを崩れに「逢いにいく」「見参」と表現する。そのため着馴れた和服をズボンに替え、足弱の体で山道を歩きつづける。役所や現地の人をわずらわし、ときに背負われてまでいく。

有名な作家だから無理が通ったのだろうか。違うとおもう。そうまでして「崩壊というこの国の背負っている宿命」を自分の目で見抜こう、とする人間の気魄にみな圧倒されたのだ。しかも著者は現地の人々の好意を細かく記すのを忘れない。自分を背負うために用意された真新しい白モスリンの紐の三ツ折ぐけも見逃さず、「お宅の方か、あるいは誰か、とにかくおんなのひとの手をわずらわせたものであることは確かだった」とある。凄くてあたたかい眼である。

無学がものをきくのは大変に忙しい、と文さんは質問ぜめである。崩壊とはどんなことか、ときかれて富士山大沢崩れの工事事務所長は「地質的に弱いところといいましょうかねえ」という。

弱い、という一語がはっとするほど響いてきた。……弱い、は目に見る表面現象をいっているのではない。地下の深さをいい、なぜ、弱いかを指してその成因にまで及ぶ、重厚な意味を含んでいる言葉なのだった

打当たって割れた石の、断面が実にま新しくて、清浄そのものに見えることである。まっさらで無垢で、いきいきとした肌が、瞬間見てとれるのだ。……あまりきれいないきいきしたものに出逢うと、かえって凄い

山河の崩壊、と一口にいっても、その中には多くの要素がある。こわい、いたましい、陰々滅々ともいっているが、同時に山河も土も生きている、という自明のことに感動している。「えらくいきいきした感じ」だという。その地球の破壊音をきいて「自分をいましめ、慎しみを知る」という自省もできようし、「山より先にこちらが崩壊するのは当然」という大悟も語られる。

それが本書を、最近溢れかえる甘口の「環境」図書とは本質的に異なったものにしている。もう観光気分で火山のお釜の底などをのぞけない、とおもった。幸田文の作品には、たしかにこうした感じ方の変革をせまる力がある。

(次ページに続く)
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初出メディア

サンデー毎日

サンデー毎日 1992年11月

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