読書日記
鹿島茂|文藝春秋「エロスの図書館」|『セックス ウォッチング』『セックスの発明』『潤一郎ラビリンス〈2〉マゾヒズム小説集』
繁殖から遠く離れて
男と女。それは生殖のために交尾する雄と雌ではない。だが、この男と女、生殖とセックスとの関係の本質はなにかというと、これがいまだによくわからない。ならば、この際「男と女、生殖とセックス」との関係を動物の生態を観察するように観察してやれ、というのが、アニマル・ウォッチングの権威デズモンド・モリスの『セックス ウォッチング』(日高敏隆監修・羽田節子訳 小学館 三八〇〇円)である。動物行動学者であるモリスがなによりも強調するのは、雌雄から男女への変化は、狩猟と採取という原始的労働分担によって生まれたという考えである。男が筋肉隆々で、モノ作りがうまく、大胆なのはハンターとして適しているからで、また女が体脂肪が多く、言葉を早く覚え、慎重なのは採取と出産と子育てに適応するためだという。ただし、これらは「異なるが等しい」生物学的性差であり、それが文化的性差(ジェンダー)に変わるのは人間が文明生活に入ってからである。ここまでは我々にもわかる。
モリスの面白いところは、ジェンダーだと思われている性差がじつはちゃんと生物学的な根拠をもっていると説明している点である。たとえば、男が若くてグラマーで肌のすべすべした女を選ぶのも、女が肩幅の広い、敏捷で元気のいい男を選ぶのも、それらの条件がすべて「繁殖に適している」というところから生まれる。また、年とった女が化粧や美容整形で自分を若く見せたがったり、逆に小さな女の子が化粧をしたがるのは、二十一歳の自分、つまり最も繁殖に適した年齢に見せようとする女の本能なのである。さらに、男にとって女の理想のウェストとヒップの割合は0・7だが、この0・7こそは、女が二十一歳のときに最も近づく数値であり、しかも、最も妊娠しやすい体型の割合なのだそうだ。このように、我々が異性の美の基準と認識している特徴は繁殖を目指した本能からみちびき出されたものにすぎないことが多いのだ。
ところで、現代における最大の問題はこうした繁殖への遺伝子プログラムが変化しないにもかかわらず、社会の変化で、女性が出産の義務なしの性的自由と労働の権利を得たことである。なぜなら女性がいくらセックスと妊娠は別と頭では考えても、繁殖への遺伝子プログラムは生きているため、心の中には「母親の衝動が今なお根強く生きている」。ところが「たいていの仕事は、たった一人のこどもを産むこととですら両立しない」。生殖とセックスが切り離された影響はこれからますます大きくなるだろう。
モリスは現代の地球の「男と女、生殖とセックス」を同時代的に観察したが、これを歴史的に見ようとしたのがトマス・ラカー『セックスの発明――性差の観念史と解剖学のアポリア』(高井宏子・細谷等訳 工作舎 四八〇〇円)である。
ラカーは、ペニスやヴァギナすらも時代によって異なった考え方でとらえられてきたと主張する。たとえば、ガレノス以来、西洋では、男と女は同じ性の完成されたモデル(男)と不完全なモデル(女)にすぎないとするワン・セックス・モデルの考え方が主流を占めてきた。「ヴァギナは内側に入ったペニスであり、陰唇は包皮で、子宮は陰嚢、卵巣は睾丸である」と考えられ、女も男と同様にオルガスムで射精し、その物質が混じり合って子供が産まれると見なされた。これは一見、男尊女卑のようだが、女が絶頂に達しない限り子供はできないと考えられていたから、男もそれなりに励んだわけだ。
ところが十八世紀になって、クリトリスの機能が「発見」され、精子と卵子が区別され、ツー・セックス・モデルが確立されると、男女同時絶頂イコール妊娠説は否定され、男だけが射精すれば子供はつくれるということが明らかになる。すると女の快楽はどうでもよくなり、女とは子宮と卵巣のことであると見なされて性欲から遠ざけられ、「女らしさ」の神話を押し付けられる。フェミニズムが断罪するジェンダーはここから生まれたのである。
なるほど、自明の前提のはずの生物学的性差にも多分に文化的フィルターがかかって、時代によっていいように解釈されてきたわけだ。しかし、これがわかったからといって、「男と女、生殖とセックス」の難問に解決の糸口が与えられたわけではない。
ならば、ここはもう一度、個々の体験の分析に立ち戻るほかはないのではないかと手に取ったのが、谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンス〈2〉マゾヒズム小説集』(中公文庫 八三八円)。なぜなら、ここに収録されている谷崎の初期中短編は、文学的には完全なカスだが、自己の性欲の分析例としてはなかなかに見事なものだからである。
周知の通り、谷崎潤一郎は典型的なマゾである。そして、それを文学表現にまで高めることで小説を完成させた人だが、中編「饒太郎」はまだ谷崎が自己の性欲の有り様を突き止めることにしか関心をもっていない時代のもので、それゆえに告白は剥き出しだ。
彼は文学者として世に立つのに、自分の性癖が少しも妨げにならないばかりか、自分はMasochistenの藝術家として立つより外、此の世に生きる術のない事を悟った
要するに「饒太郎」はマゾヒスト谷崎の自己形成小説なのである。
ではその自己形成はどのようにして行われたのか?逆説的なことにまず自ら教育者となることである。
多くのMasochistenは残酷な獣性を具備する婦人に邂逅する事を望んで居るのだが、そのような婦人は実際世の中に存在して居る筈はないので、つまり、成る可く鉄面皮な、利慾の為めにはいかなる行為も辞しないようなProstituteを手なずけた上、自分に対して能う限り残酷な挙動を演じてくれるように金を与えて注文するより外はないのである
谷崎の自己分析は確かで、マゾヒストの生態がよくわかる。だが、決定的なことがわからない。なぜマゾになるのか? 繁殖をめざすはずの男女のセックスが、文明が進むほど、必然的にそこから逸脱した形態をとるのはなぜなのか? 人口爆発の本能的回避なのか? ならば、中国のような人口爆発国では、少子化のためにSMや同性愛を奨励したほうがいいのではないか? 結局、いくら本を読んでも、「男と女、生殖とセックス」の間の謎は解けぬままである。
【この読書日記が収録されている書籍】
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