対談・鼎談

『佐佐木幸綱歌集』佐佐木幸綱|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2017/10/28
佐佐木幸綱歌集 (現代歌人文庫 23) / 佐佐木 幸綱
佐佐木幸綱歌集 (現代歌人文庫 23)
  • 著者:佐佐木 幸綱
  • 出版社:国文社
  • 装丁:単行本(170ページ)
  • ISBN:4772002103

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山崎 佐佐木幸綱という、ようやく中年期に踏みこんだ青年歌人のアンソロジーでありまして、最初期から最近作までの自選歌集と見てよいかと思います。

わたくしがこの本に興味を惹かれた理由は、現代では珍しくこの作家は”家”というものの中に踏みとどまった現代青年の代表である、という気がしたからです。日本では明治以来、知識人の歴史は家出の歴史でして、家を出ることで成熟する、あるいは成熟の偽装を身につけてきたという気がします。

彼は「わが故郷」という文章を書いていて、それによると、昭和十三年十月八日、月の明るい未明に、俳人で産婦人科医の水原秋桜子氏の手で世の中にひっぱり出された人で、これだけでも羨ましいような気がしますが、いうまでもなく、お父さんもお祖父さんも、竹柏園「心の花」の主宰者です。そういう中でお祖父さんの信綱という人は、誰彼なしに「歌をおつくりなさいまし」といって歌をつくらせて歩いた人物で、「わが家での会話はすべて五七五七七でやるんだ」と嘘をついても人が本気にするような世界で育った。子供のとき、歌をつくると、お菓子やお小遣いをもらえたという世界で育ちました。

しかし、二十歳の誕生日にお父さん(治綱)が亡くなり、そして六〇年安保闘争を経験するんですが、父を失ったということと安保にぶつかったというこの二つの事件が、この詩人の心のふるさとになっている。本人自身がそういうふうに認めています。

「父はその父を脱して子を育てし当然なれど子の吾を涙ぐます」という歌があります。これが歌として最高傑作だとは思いませんが、父がその父を裏切って子を育ててくれた、その子である自分が、いま父親の若かった頃を思い出して涙ぐむ、というのは、この人の精神の原風景とでもいうべきものでしょう。この歌を見るなりわたくしは斎藤茂吉の歌を思い出したんです。

「あが母の吾(あ)を生(う)ましけむうらわかきかなしき力おもはざらめや」と茂吉は母親をうたったわけですが、同じ意味で佐佐木幸綱は父親をうたっています。

彼は、いわば理念的な次元において父親を倒し、王権奪取をして、そのことを悲しんでいるわけです。そのとき初めて父親が自分と同じ一つの人生として見えてくる、という体験をしているようです。

まあ、こんなむずかしい歌は例外的で、佐佐木幸綱氏の特色は、非常にわかり易い詩を、現代に珍しくうたってくれるという、わたくしとしてはたいへん嬉しい発見をしました。「海近き街の夕風翻り冬窓に来る祖父の死に来る」
とか、「灯ともして小さき喪の家血縁の黒服溢れつつ活気満つ」とか、よくわかる歌が多いんです。

佐佐木幸綱氏の歌は、詩も小説も全部含めた、日本近代文学全体の中で、珍しく、大人の男の歌なんですね。大人の男の歌だということは、多分、彼が家の中に踏みとどまって、手抜きをしないで父親ないしは祖父とぶつかって、
そこで王権奪取のドラマを経験しているということだろうと思います。

丸谷 佐佐木さんの歌が男歌だっていうことは、よくいわれることなんですね。アララギでない流派というのは、つまり、明星なんだけど、明星の歌人は、みんな晶子の系列になってしまって、鉄幹の系列の歌はすくないんです。
ほとんどないといってもいい。ところが佐佐木幸綱の歌は、非常に鉄幹を思い出させる。

「悔いの杭打ち込まれたる男心(おごころ)をぬけがらとして恥深きかな」、鉄幹をもっと現代人にした感じ。「水と水と絡み抱き合い震えゆき大河を持たず日本の冬」、これなんかまさしく与謝野鉄幹が把握したアジアと非常に近いところがある。悪くすると、ちょっと滑稽な感じにもなりかねないような鉄幹ぶりで、そういうところが、近代日本の歌の歴史の中で異色の、注目すべき歌人だと思うんです。

木村 わたしにもこの歌集は、おもしろかったのですけれども、この人の原体験の中には、疎開というものが一つ、大きな要素を占めているようですね。歌集の中で、疎開先の土地の子供につらく当たられた、ということが述べられています。それからまた、疎開先の千葉県で、ダダダッ、ピッピッピッと機銃掃射に遭っている。これが彼の一つの芯になっていると思うんです。つまり、時間を感じさせない短歌をつくりたい。調べじゃなくて響きの短歌をつくるんだ、リズムは直立していなければいけない、というのが佐佐木さんの主張ですね。

プツプツと切れる歌をつくるというのは、ある意味で、非常に現代的で、大いに共感するところがあります。つまりそこには、対立的、緊張的に生きる姿勢があると思うんです。歴史のほうでいうと、古代の次に中世がきて、中世の次に近代がきて、というんじゃなくて、古代は古代、中世は中世、近代は近代なりにそれぞれ独自の意味をもっている、という立場に通じている。この人はそういう意味で、おれはおれとして生きているんだという気持、肉体の中から突きあげてくる欲望とか情念を、そのままズバッと書くんですね。

詩はよくわかりませんが、本当は詩人が使っちゃいけないんじゃないかと思うような言葉を彼は平気で使うわけです。たとえば「疲労困憊茫々としてありつるに深みどりなす性欲の枝」など、”性欲”なんていう言葉を生のまま出しています。たいへんわかり易い詩もあって、「深夜水洗便所の紐を引く時にふと思う釣瓶落(つるべおと)しの一生」……(笑)。非常に直截ですね。「足の爪を切る日曜の昼さがり幸綱と呼ばれる一塊の肉」、自分を肉の塊りとして見ている。

その点、生と死を実感した人の体験が、もとにあると思うわけです。

(次ページに続く)

初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1977年11月11日

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