総合空間としての本
書評といえば書物の批評だが、そこで取り上げられるのは、概して書物の精神的内容である。精神的内容を包む装飾としての書物という、人間の作り上げた一個の工作物がうんぬんされることはまずない。げんに評者なども頬かぶりをして、そこは手を抜くことにしている。なぜこんなことになるのか。グーテンベルク以後の機械印刷・大量生産方式によって、これ一冊しかない書物というものが消滅したということがある。それ以前の中世の写本は、これ一冊がかけがえのない一冊だった。挿絵、装飾、字体が一体となって建築のような総合空間が書物として形成され、画家、装飾家、能書家が緊密な共同作業のうちに一回限りの作品を生みだした。
そこではいきなり内容にとびつくのではなくて、精神内容を視覚的にほのめかす装飾の回路を通ってテクストに近づいた。しかし活字印刷の発明以後、テクストをすみやかに伝達する媒体としての活字のみが偏重され、その結果、挿絵や装飾は書物から分離されて、書物はいよいよ活字一色の味気ないものとなる。現代用語でいえば、このあたりからそろそろ「活字ばなれ」がはじまるのである。
その書物の危機を自覚して、ふたたび装飾とテクストの一体化をめざしたのがウィリアム・ブレイクであり、またウィリアム・モリスだった。モリスと同時代の挿絵画家ウォルター・クレインは、書物の起源を原始時代の獣骨の絵文字にまでさかのぼり(まず絵があった)、中世彩飾写本の美しさを個々の例に探りながら、後期ゴシックの字体の洗練からいずれは印刷活字のデザインが生みだされる必然性をそれなりに評価しつつ、あくまでも現場の書物芸術家としての書物装飾の回復を語る。ついでながら、その手掛かりのひとつが北斎漫画をはじめとする日本の木版画に託されて、ジャポニズムを熱っぽく説く中世回帰的社会主義者クレインの姿勢もおもしろい。
書物装飾のいにしえに通じる細道は、すでにクレインの時代に「アメリカ化」によっておびやかされていた。書物の危機はそれ以来、いまも緊急問題として持ち越されている。とすればこれは、名著翻訳といって済ましていられる話ではない。その意味において本訳書は翻訳の傑作だろう。原テクストに倍する量の世紀末美術工芸百科事典的な訳注といい、最新の研究成果を組みこんだ解説といい、訳者自身の愛書家的情熱と書物の現状への危機感の読み取れる、水準の高い訳書となった。
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