作家論/作家紹介

折口信夫

  • 2018/01/13
以前、折口信夫が1914年に27歳でふたたび上京した時期の日記を読んでいて、いきなり登場するハングルに驚いたことがあった。「新しい히거にも逢著した。それが더새に対してであつた。さうして肉体的には成功することは出来さうで、精神的には悲観すべきなからひにある」という一節である(全集第31巻)。折口が国学院在学中、後に『日鮮同祖論』を著す金沢庄三郎に師事し、4年にわたって朝鮮語を学んだことは、みずから記している通りである。だが日記に記されている単語は、「ヒコ」「トセエ」とは読めても、朝鮮語にはない。何か暗号ではないかと長らく思っていたが、最近になって安藤礼二の論文『身毒丸変幻――折口信夫の「同性愛」』を読み、謎が解けた。現在韓国の正書法とはいささか異なるが、それは日本語の「恋」と「生徒」の音を逆転し、ハングルに変えたものだったのだ。なるほど、たしかに年譜に当たると、折口はその前年、2年半にわたって教鞭を握った大阪の今宮中学を辞し、卒業生10人あまりと上京して、本郷で共同生活をしている、そのうちの誰かと、師弟愛に発する同性愛の関係に及びつつあったことが、この日記には示唆されている。

わたしがこの記述に関心をもったのには、特別な理由があった。しばらく前からパゾリー二の詩の翻訳に携わっているためである。イタリアの詩人・映画監督として著名なこの人物も、若き日に中学教師の身でありながら教え子との性的関係が発覚、カトリックの謹厳な風土が手伝って、母の故郷を石もて追われるという悲痛な体験をしている。この挫折と後悔とが彼をして秩序転覆的な作風へと導いたことは、すでにパゾリー二研究の世界では常識とされている。それでは日本の折口研究にあってその同性愛体験は、どの程度にまで文学の本質の問題として了解されているのだろうか。

2000年に富岡多恵子が『釋迢空ノート』で、折口が18歳の時に東京で同棲していた9歳年長の藤無染なる人物について詳述したことは、革命的な事件であった。なるほど折口の同性愛について、これまで弟子の回想から挿話的に窺うことはできたが、若き日に彼が廻りあったこの青年僧との決定的な体験が、ようやく明るみに出されたのである。これを受けて2004年、安藤礼二が『死者の書』に丹念な註釈を施した際、この折口の代表作が藤無染の抱いていたキリスト教と仏教の比較統合思想、さらにその背後にあるエジプトへの憧れと密接な関係にあることを説いた。

釋迢空ノート  / 富岡 多惠子
釋迢空ノート
  • 著者:富岡 多惠子
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(375ページ)
  • 発売日:2006-07-14
  • ISBN-10:4006021062
  • ISBN-13:978-4006021061
内容紹介:
法名を筆名とした国文学・民俗学者の折口信夫(歌人・詩人の釋迢空)が秘していたもの、自ら葬り去ったこととは何か。虚と実、学問と創作、短詩型と自由詩の狭間に生きた折口の難問とは。日本の近代と格闘した巨人の謎多き生涯を、その歌と小説にしかと向き合い、史料の発掘と確かな精読で描き出す渾身の評伝。毎日出版文化賞受賞作。

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初稿・死者の書 / 折口 信夫
初稿・死者の書
  • 著者:折口 信夫
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(338ページ)
  • 発売日:2004-07-01
  • ISBN-10:4336046336
  • ISBN-13:978-4336046338
内容紹介:
半世紀を経ていま甦る、日本近代小説における無二の成果。『死者の書』雑誌初出を完全収録。『死者の書・初稿』、『死者の書・続篇』、『口ぶえ』、さらに大嘗祭をめぐる諸論考を収め、編者による画期的評論を付す。

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安藤はその後も実証的探求を続け、この5月にはこれまで折口の歌集から削除されていた短歌を発見した。「目ふさげど暗になほ見る大き身の契りあればや釈迦牟尼如来」。官能的な、美しい歌である。折口の詩魂の内では仏教的神秘主義とセクシャリティとが不可分に結びついていることが、ここに優れて示唆されている。この強烈な官能性が後に『死者の書』へと大成していったと、安藤は説く。ちなみに折口が作歌の際に用いた「釋迢空」とは、そもそも藤無染から与えられた法名であり、それを折口が用い出すのは、藤無染が彼と訣別して妻帯し、結核で天折した後からである。

安藤のこのような探求は2005年5月の『毎日新聞』社会面で報道されたが、それに対し、『東京新聞』6月11日の「大波小波」欄の匿名子が、「勇み足」と椰楡し、「そもそも恋人を釈迦になぞらえるのは、信仰者として不遜の極み」と批判した。安藤はこれに反論し、先に述べた『群像』同年9月号にさらなる長い論考を、豊かな実証資料とともに発表している。

論争を傍観していて思うのは、日本の近代文学研究にあっていまなお強烈に立ち込めているホモフォビア(同性愛嫌悪)がまたもや台頭するのではないかという恐れである。欧米のジェンダー研究ではとうに常識とされている前提が、なぜかこの極東の文学界でだけは、まだまだ禁忌とされているのだ。それでは三島由紀夫から中上健次まで、折口に強い共感を示していた文学者の研究にも、深刻な齟齬を来たすはずである。生前の折口は弟子にむかって、同性愛は変態ではなく、男女の愛よりも純粋であると語ったと、加藤守雄の『わが師折口信夫』にはある、この不世出の天才の全体像が差別的な偏見によって損なわれることなく論じられる日が来ることを、わたしは待ちたいと思う。

わが師折口信夫  / 加藤 守雄
わが師折口信夫
  • 著者:加藤 守雄
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:文庫(247ページ)
  • ISBN-10:4022606762
  • ISBN-13:978-4022606761

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【この作家論/作家紹介が収録されている書籍】
人間を守る読書  / 四方田 犬彦
人間を守る読書
  • 著者:四方田 犬彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(321ページ)
  • 発売日:2007-09-00
  • ISBN-10:4166605925
  • ISBN-13:978-4166605927
内容紹介:
古典からサブカルチャーまで、今日の日本人にとってヴィヴィッドであるべき書物約155冊を紹介。「決して情報に還元されることのない思考」のすばらしさを読者に提案する。

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初出メディア

東京新聞

東京新聞 2005年9月29日

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