作家論/作家紹介

【ノワール作家ガイド】アンドリュー・ヴァクス『フラッド』(早川書房)、『凶手』(早川書房)

  • 2021/09/17

アンドリュー・ヴァクス

一九四二年、ニューヨーク州生まれ。保護監察官、出獄者社会復帰センター勤務などを経て、青少年犯罪と児童虐待の専門弁護士となる。青少年犯罪を扱ったノンフィクションを発表したのち、第一長篇『フラッド』を発表、アウトロー探偵バークとその仲間が、児童虐待者などと戦うシリーズ第一作であり、非常な成功を収める。日本でも第二作『赤毛のストレーガ』の紹介とともに人気が爆発、現在までシリーズは一一作あるが、すべて翻訳紹介されている。
ノンシリーズ作品は『凶手』と、コミック・ヒーロ-であるバットマンを描いたオリジナル小説『バットマン 究極の悪』がある。

アンドリュー・ヴァクスの探偵バーク・シリーズほど大衆的な人気を勝ち得たハードボイルド探偵はあまり多くない。チャンドラーのフィリップ・マーロウ以降、せいぜいロバート・B・パーカーのスペンサーと、スー・グラフトンのキンジー・ミルホーン+サラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキーくらいだろう。なぜヴァクスのバークは、この地位を勝ち得たのだろう。

バークは、九〇年代のフィリップ・マーロウだからである。スペンサーが七〇-八〇年代の、ミルホーンやウォーショースキーが女性にとっての八〇年代の、マーロウであったように。その時代の社会状況のなかでリアリティをもち得る「ロマンティシズム」の担い手――それが「マーロウ」である。

評論家・池上冬樹は、ヴァクスの第一長篇『フラッド』の文庫解説において、「劇画的な物語」ということばを記している。この解説の論旨からいえば枝葉末節にあたる箇所ではあるが、「劇画的」という印象を抱かせたのは、(いかに現代的にリアルな悪を描き、それに関わる細密で鮮烈なディテールに満ちてはいても)この物語の根底にある物語構造が、寓話的で象徴的でシンプルな「善と悪」の闘争であるがゆえだろう。

ヴァクスは、自分が小説を書く理由は、「児童虐待」という卑劣な社会病理を根絶するため、そしてこの問題について多くの一般市民を啓蒙するためであるという。

バーク・シリーズは、一見すると陰惨で救いがないように見える――この世の中はクソだ、と言っているように見える。ヴァクスは現実の犯罪と接する立場にいて、現代に厳然として存在する、児童虐待を代表とする病理を知悉している。そしてそれについて「啓蒙」するために、細密なディテールを添えてそれを描き出す――「これが現実なのだ」と。

だがヴァクスの最終的な目的はそこではない。「これが現実なのだ」の先――「ならばいかにしてそこに秩序を回復させるか/いかなる正義があり得るのか」が目的なのだ。かくてバークが生まれたことになる。一九三〇年代の殺伐とした時代に、チャンドラーが、あり得る「ロマンティシズム」としてフィリップ・マーロウを生み出したのと同様に。

だからヴァクスの物語には、現代の汚濁と不安と絶望が描き出されてはいても、「ポジティヴなロマンティシズム」が生存している。「秩序回復の神話」への信仰が生存している。だからこそ、バーク・シリーズは広範な読者の支持をうけ、バークと仲間たちは、一九九〇年代のヒーローとなり得たのだ。

ここで、ヴァクスが発表したバークの登場しない物語のうちのひとつ、『凶手』を見てみたい。〈ゴースト〉と異名をとる名無しの殺し屋の一人称語りで進行するこの作品は、幼少期に虐待をうけて裏社会の職業的殺人者となってしまった〈ゴースト〉が、自分の同類である娼婦、シェラを追ってアメリカの地下世界を彷徨う「地獄めぐり」だ。『凶手』は文字通り「バーク」のいないヴァクス作品――正義をもたらす者のいないヴァクス的世界の物語である。

〈ゴースト〉は、正義どころか、シェラ以外に己の拠りどころを持たない――それも、はなはだ曖昧な拠りどころなのだ。シェラと〈ゴースト〉に、どれほどの信頼関係が存在するのかは判らない。それでも、〈ゴースト〉は、シェラのために殺し、逃げ、あらゆる「悪」をなす。「シェラ」は、〈ゴースト〉のなかの偶像にすぎない。〈ゴースト〉を動かすのは、荒涼とした内面に唯一信じるに足るものとしてある「シェラ」という偶像に向けられた「渇仰」だ。バーク・シリーズの『サクリファイス』によれば、バークもまた、児童虐待の犠牲者であった。つまり〈ゴースト〉は道を誤ったバークであり、『凶手』は、「正義」という信仰を見いだせなかった「バーク」の物語なのだと言えるだろう。

暗澹として美しいノワール小説『凶手』は、バークを取り去れば、ヴァクスがノワール的世界を描いていることを示している。ノワール的なるものは、ヴァクスの世界のなかで、バークの周囲にひそんでいる。『ハード・キャンディ』の殺し屋ウェズリィ、そして〈ゴースト〉――。

「ノワール」と呼ばれる物語世界――信じるものを失った人間たちの「渇仰」――が、現実の世界像であると看破したのがアンドリュー・ヴァクスだった。だがヴァクスが目指していたのは現実の救いのなさを描くことではなく、そうした現実の世界でもなお生存し、成立し得るヒーロー譚だった(ヴァクスがチャイルド・ポルノ組織と戦うバットマンを描いた小説を書いていることを想起すべし)。

ヴァクスは、バークという、九〇年代の「正義」を体現し得たヒーローを生み出した点で、二〇世紀ミステリ史に名を残すべき作家であり、またノワールを考えるうえで、きわめて重要な「非ノワール作家」であるのだ。

【必読】『フラッド』(ハヤカワ文庫)、『凶手』(同左)
フラッド / アンドリュー ヴァクス
フラッド
  • 著者:アンドリュー ヴァクス
  • 翻訳:佐々田 雅子
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(579ページ)
  • ISBN-10:4150796017
  • ISBN-13:978-4150796013
内容紹介:
一週間千ドルで、コブラという男を捜してほしい-フラッドと名乗る小娘の依頼は、バークにはうまい話に思われた。だが彼女は、幼児虐待殺人鬼コブラに復讐を誓う女性武術家だった…前科27犯のア… もっと読む
一週間千ドルで、コブラという男を捜してほしい-フラッドと名乗る小娘の依頼は、バークにはうまい話に思われた。だが彼女は、幼児虐待殺人鬼コブラに復讐を誓う女性武術家だった…前科27犯のアウトロー探偵バークが、聾唖の武術の達人、黒人の預言者、マッドサイエンティスト、魅惑的な男娼らをひきつれ、NYの暗黒街で最低のうじ虫を追いつめる。ポスト・ネオ・ハードボイルドの旗手ヴァクス、衝撃のデビュー作。

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凶手 ) / アンドリュー・ヴァクス
凶手 )
  • 著者:アンドリュー・ヴァクス
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(333ページ)
  • ISBN-10:4150796076
  • ISBN-13:978-4150796075

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