作家論/作家紹介
【ノワール作家ガイド】ニコラス・ブリンコウ『Acid Casuals』、『Jello Salad』、『マンチェスター・フラッシュバック』(文藝春秋)
イギリス、ロックデール生まれ。ミュージシャン、ジャーナリスト、TV脚本家などを経、九六年、長篇『Acid Casuals』でデビュー。「タランティーノとアルモドヴァルの融合」と評され、ノワール界の新星として話題となる。第三作『マンチェスター・フラッシュバック』でイギリス推理作家協会シルヴァー・ダガー賞を受賞した。ブリット・ノワールの旗頭としてその動向が注目されているほか、イギリスの若い作家たちとのコラボレーションなどにも積極的な、シーンの先導者と言える。
「ノワール」と呼ばれるミステリの産地としてこれまで認められてきたのは、アメリカとフランスの二国だけだった。だが一九九〇年代後半、日本では馳星周の『不夜城』、イギリスではニコラス・ブリンコウの『Acid Casuals』が出版され、「ノワール」は、二〇世紀末の北半球市民社会の状況をなぞるように、英米仏日という世界の主要なミステリ産地のすべてで勃興したということになる。
ブリンコウの登場は、クエンティン・タランティーノの映画〈パルプフィクション〉と無縁ではないだろう。五〇年代の「パルプ小説」のスリージーな物語を、九〇年代的な映像感覚で語り直したこの映画の、グラフィックな暴力描写とそれらを笑い飛ばし消費するインモラルな空気。この作品の商業的成功によって、現代的サブカルチャーとパルプ・ノワールがリンクしたことになる。
ブリンコウの第一長篇『Acid Casuals』と第二長篇『Jello Salad』は、まさしくタランティーノ派のノワール小説だった。暴力と黒い笑いとが、サブカルチャー/ポップカルチャーに彩られて疾走する、という造作もそうだが、創作の手つきにおいても、タランティーノとの共通性がみられる。すなわち先行作品からの引用だ。『Jello Salad』においては、銃ひとつ構えるにも、さまざまな映画の中の――アイス・キューブやチョウ・ユンファの――射撃姿勢を思い返して批評を加えてからでないと行動に移らない男が出てくるし、第一作も、マンチェスターに戻ってきた美貌の殺し屋が、因縁のある暗黒街の顔役に戦いを仕掛けるという主筋からして、ギャング映画/西部劇/ヤクザ映画の定型の上を物語が走っていることが判る。
だが、単なる焼き直しかといえば、そうではない。ダンス・ミュージックやドラッグ・カルチャーへの言及、それらを衒いもなく摂取し暴走する(それもポップに)登場人物。「ポップなインモラルさ」――これが鍵だ。
ふたたび『Jello Salad』を見てみる。この作品はシック・ジョーク満載のブラック・コメディの色彩が強いが、前述したようなかたちでの先行作品への言及は、登場人物たちが誰もかれも、「何者か」を演じずにはいられないということを示す。主人公がTVの料理番組のシェフであり、脇役のひとりがメロドラマの端役女優であることからも、この作品が、メディアの流す情報に中毒した人間たちの物語であることが読みとれる。
タランティーノやジョン・ウーの映画のなかの暴力や銃撃と、現実のそれとが等価になって、クールにふるまうべく、そうしたポップな背徳を現実に演じようとする者たち――それが、ブリンコウのノワール劇を演じる人間なのだ。単に流行りの手法で先行作品を引用しているのでなく、先行作品=ポップカルチャーに漬かりきったわれらの世代の背徳を描く小説だということなのだ。
出世作となった第三長篇『マンチェスター・フラッシュバック』は、沈痛な筆致で描かれたリアリズムの作品だ。主人公はかつてマンチェスターでドラッグとダンス・ミュージックの享楽に溺れ、男娼まがいの生活を送っていた男。現在は更生してロンドンに暮らしている。この男が、自身の過去と関わる殺人を契機にマンチェスターに戻るのがこの作品の主筋で、現在と一五年前のエピソードが交互に語られる。この「過去の物語」は、時代設定の差こそあれ、第一、二作で描かれたような人物の物語だ。だが本作の焦点は、メディア/ファッション/ポップカルチャーに惑溺する快楽よりも、そうしたモノに搾取される若者たちの悲劇に合わされている。消費社会と戯れつつ、それに消費される若者たち。彼らの鬱積した暗い怒りが、この作品を支配しているのだ――暗黒の空気が。
『マンチェスター~』は、そうした意味で、ブリンコウ自身の初期作品に対する痛烈な批判になっており、同時に、一九八〇年代中頃に完成をみた資本主義/消費主義社会を撃ち抜こうとする試みでもあった。
第四作『The Dope Priest』で、ブリンコウは、初期二作の登場人物のような小悪党を主人公にしつつ、その男を西欧と中近東の文化がラディカルに衝突するイスラエルでのトラブルの渦中に放り込んでいる。著者自らが「ポリティカル・フィクション」と呼ぶこの作品は、たとえばグレアム・グリーンの『パナマの男』などを代表とする、「イギリス男が非西欧文化のなかで味わわされる悲喜劇」という伝統的な物語形式の流れにあるものともとれ、ブリンコウという作家が、あくまでイギリス的伝統のなかで、文学の冒険を企んでいることが見てとれる。
「記号と戯れる」式の自己言及的なパルプ・ノワールから出発し、それに対する批判に至ったブリンコウの作品群は、おそらく、二〇世紀末になぜ、第二次大戦前後に生み出されたパルプ・ノワールが再評価され、またふたたび発生しはじめたのか、という謎を解明するのに、格好のテキストであるにちがいない。
【必読】『Acid Casuals』(未訳)、『Jello Salad』(未訳)、『マンチェスター・フラッシュバック』(文春文庫)
「ノワール」と呼ばれるミステリの産地としてこれまで認められてきたのは、アメリカとフランスの二国だけだった。だが一九九〇年代後半、日本では馳星周の『不夜城』、イギリスではニコラス・ブリンコウの『Acid Casuals』が出版され、「ノワール」は、二〇世紀末の北半球市民社会の状況をなぞるように、英米仏日という世界の主要なミステリ産地のすべてで勃興したということになる。
ブリンコウの登場は、クエンティン・タランティーノの映画〈パルプフィクション〉と無縁ではないだろう。五〇年代の「パルプ小説」のスリージーな物語を、九〇年代的な映像感覚で語り直したこの映画の、グラフィックな暴力描写とそれらを笑い飛ばし消費するインモラルな空気。この作品の商業的成功によって、現代的サブカルチャーとパルプ・ノワールがリンクしたことになる。
ブリンコウの第一長篇『Acid Casuals』と第二長篇『Jello Salad』は、まさしくタランティーノ派のノワール小説だった。暴力と黒い笑いとが、サブカルチャー/ポップカルチャーに彩られて疾走する、という造作もそうだが、創作の手つきにおいても、タランティーノとの共通性がみられる。すなわち先行作品からの引用だ。『Jello Salad』においては、銃ひとつ構えるにも、さまざまな映画の中の――アイス・キューブやチョウ・ユンファの――射撃姿勢を思い返して批評を加えてからでないと行動に移らない男が出てくるし、第一作も、マンチェスターに戻ってきた美貌の殺し屋が、因縁のある暗黒街の顔役に戦いを仕掛けるという主筋からして、ギャング映画/西部劇/ヤクザ映画の定型の上を物語が走っていることが判る。
だが、単なる焼き直しかといえば、そうではない。ダンス・ミュージックやドラッグ・カルチャーへの言及、それらを衒いもなく摂取し暴走する(それもポップに)登場人物。「ポップなインモラルさ」――これが鍵だ。
ふたたび『Jello Salad』を見てみる。この作品はシック・ジョーク満載のブラック・コメディの色彩が強いが、前述したようなかたちでの先行作品への言及は、登場人物たちが誰もかれも、「何者か」を演じずにはいられないということを示す。主人公がTVの料理番組のシェフであり、脇役のひとりがメロドラマの端役女優であることからも、この作品が、メディアの流す情報に中毒した人間たちの物語であることが読みとれる。
タランティーノやジョン・ウーの映画のなかの暴力や銃撃と、現実のそれとが等価になって、クールにふるまうべく、そうしたポップな背徳を現実に演じようとする者たち――それが、ブリンコウのノワール劇を演じる人間なのだ。単に流行りの手法で先行作品を引用しているのでなく、先行作品=ポップカルチャーに漬かりきったわれらの世代の背徳を描く小説だということなのだ。
出世作となった第三長篇『マンチェスター・フラッシュバック』は、沈痛な筆致で描かれたリアリズムの作品だ。主人公はかつてマンチェスターでドラッグとダンス・ミュージックの享楽に溺れ、男娼まがいの生活を送っていた男。現在は更生してロンドンに暮らしている。この男が、自身の過去と関わる殺人を契機にマンチェスターに戻るのがこの作品の主筋で、現在と一五年前のエピソードが交互に語られる。この「過去の物語」は、時代設定の差こそあれ、第一、二作で描かれたような人物の物語だ。だが本作の焦点は、メディア/ファッション/ポップカルチャーに惑溺する快楽よりも、そうしたモノに搾取される若者たちの悲劇に合わされている。消費社会と戯れつつ、それに消費される若者たち。彼らの鬱積した暗い怒りが、この作品を支配しているのだ――暗黒の空気が。
『マンチェスター~』は、そうした意味で、ブリンコウ自身の初期作品に対する痛烈な批判になっており、同時に、一九八〇年代中頃に完成をみた資本主義/消費主義社会を撃ち抜こうとする試みでもあった。
第四作『The Dope Priest』で、ブリンコウは、初期二作の登場人物のような小悪党を主人公にしつつ、その男を西欧と中近東の文化がラディカルに衝突するイスラエルでのトラブルの渦中に放り込んでいる。著者自らが「ポリティカル・フィクション」と呼ぶこの作品は、たとえばグレアム・グリーンの『パナマの男』などを代表とする、「イギリス男が非西欧文化のなかで味わわされる悲喜劇」という伝統的な物語形式の流れにあるものともとれ、ブリンコウという作家が、あくまでイギリス的伝統のなかで、文学の冒険を企んでいることが見てとれる。
「記号と戯れる」式の自己言及的なパルプ・ノワールから出発し、それに対する批判に至ったブリンコウの作品群は、おそらく、二〇世紀末になぜ、第二次大戦前後に生み出されたパルプ・ノワールが再評価され、またふたたび発生しはじめたのか、という謎を解明するのに、格好のテキストであるにちがいない。
【必読】『Acid Casuals』(未訳)、『Jello Salad』(未訳)、『マンチェスター・フラッシュバック』(文春文庫)
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