コラム

カズオ・イシグロの「信頼できない語り手」とは

  • 2018/02/04

社会的、政治的な選択ではなく正統派の作家イシグロがノーベル文学賞を受賞したことには、大きな意味がある

10月5日、長崎生まれのイギリス人作家カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞した。本人にとっても意外だったらしく、英ガーディアン紙によると、最初は今はやりの「偽ニュース」ではないかと疑ったくらいだという。

イシグロは、1982年に27歳で作家デビューしてから62歳の現在まで長編小説は7作しか刊行していない。専業の小説家としては寡作なほうだ。

しかし、『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills)と『忘れられた巨人』(The Buried Giant)以外の長編小説はすべて著名な文学賞の最終候補になっており、1989年刊の『日の名残り』(The Remains of the Day)は世界的に権威があるブッカー賞を受賞した。

イギリス貴族の主人への忠誠心と義務を優先して生きてきた老執事が、アメリカ人富豪の新しい主人を得て、過去に思いを馳せる『日の名残り』は、アンソニー・ホプキンス主演で映画化もされ、イシグロの名前は一躍世界に知られるようになった。

若い世代にアピールしたのは、第6作の『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)だった。これまでの作品とは異なり、SFの要素が強いディストピア的な世界を舞台にしている。映画では悲劇的なラブストーリーが強調されているが、原作では洗練された近代社会におけるヒューマニティの偽善やカフカ的な不条理を感じさせる。

ノーベル文学賞を与えたスウェーデン・アカデミーは、イシグロについて「強い感情的な力を持つ小説を通し、世界と繋がっているという我々の幻想に潜む深淵を暴いた」作家と説明した。

それはどういう意味なのだろうか?

イシグロの作品は「信頼できない語り手(unreliable narrator)」で知られている。つまり、語り手自身が自分の人生や自分を取り囲む世界についてかならずしも真実を語っていないのだ。現実から目を背けている場合もあれば、現実を知らされていない場合もある。

だが、読者が小説を読み解くときには、語り手の視点に頼るしかない。物語が進むにつれ、馴染みある日常世界の下に隠されていた暗い深淵のような真実が顕わになってくる。そこで、読者は、語り手とともに強い感情に揺すぶられる。

『浮世の画家』と『日の名残り』はイシグロ自身が何度か語っているように、設定こそ違うが「無駄にした人生」をテーマにした同様の作品である。前者はアーティストとしての人生、後者は執事としての職業人生と愛や結婚という個人的な人生の両方だ。どちらの語り手も、手遅れになるまで現実から目を背けてきたことに気付かされる。「暗い深淵」をさらに鮮やかに描いたのが『わたしを離さないで』だ。主人公が知る強烈な現実に、読者は足元をすくわれたような目眩いと絶望を感じさせられる。

この「信頼できない語り手」について、イシグロは2015年のガーディアン紙のウェブチャットで読者からの質問にこう答えている。

「私が小説を書き始めたとき、『信頼できない語り手』について特に考えたことはありませんでした。実際に、当時はこの表現は今ほど使われていませんでしたし。私は、自分自身が現実的だと感じるかたち、つまり、たいていの人が、自分の体験について語るとき普通にやっているように語り手を描いているだけです。というのは、人生で重要な時期を振り返って説明を求められたとしたら、誰でも『信頼できなく』なりがちです。それが人間の性というものです。人は、自分自身に対しても『信頼できない』ものです。というか、ことに自分に対してそうではないでしょうか。私は(信頼できない語り手)を文芸的なテクニックだとは思っていません」

読者の私たちも「信頼できない語り手」として毎日を生きている。イシグロ作品は、私たちが自分自身や自分の人生について抱いている幻想や、自分についている嘘についても考えさせてくれる。

ところで、ノーベル賞のたびに日本のメディアは村上春樹を話題にする。「村上春樹が受賞するチャンスは?」という質問もよく受ける。だが、意外性を重んじるアカデミーのことを考えると、日本が騒げば騒ぐほど受賞は遠ざかるような気がしてならない。

よく誤解されていることだが、ノーベル文学賞は、文芸賞として権威があるブッカー賞などとは異なり、「最も優れた小説」に与えられるものではない。「文学の分野において理念をもって創作し、最も傑出した作品を創作した人物」が対象であり、「世界で最も優れた作家」でもない。

これまで重視されてきたのは「理念」の部分だ。そこで、社会的あるいは政治的な要素が反映した選択になりがちだ。最高峰の文学者や文芸小説家が集まって「最も優れた小説家」を選ぶのであれば、異なる選択になるだろう。

また、アカデミーの体質なのか、正統派の文芸作家や人気作家よりも意外性を重んじているように感じる。

過去10年間の受賞者の国籍は、フランス、ドイツ、ペルー、スウェーデン、中国、カナダ、フランス、ベラルーシ、アメリカとほとんど重ならない。

アメリカ人の受賞者にしても、社会性と意外性を感じる。1993年のトニ・モリソンは露骨な性表現や人種差別の内容で一時期著作が禁書扱いになった黒人作家であり、昨年はミュージシャンのボブ・ディランだった。

特に昨年のディランの選択は論争を引き起こした。ミュージシャンとしてのディランの才能と達成は議論の余地はないが、詩人として選ぶなら、同等の評価を得ているミュージシャンの候補は山ほどいる。

たとえば回想録『ジャスト・キッズ』で全米図書賞を受賞したパティ・スミスや映画『いちご白書』の主題歌「サークルゲーム」を作詞作曲したジョニ・ミッチェルなど、長年にわたって文学的な才能や社会性を評価されてきた女性ミュージシャンだ。

ノーベル賞の授賞式にもディランは出席せず、これも論争の的になった。それが今年のカズオ・イシグロの選択に影響を与えていないとは断言できない。

イシグロの選択は本人にとっても意外だったが、それは、彼が正統派の作家だからだ。

イシグロの作品は、近年の受賞者の作品と比べると読みやすく、読者の感情に直接訴えかける。また、文芸の世界ではジャンル小説が軽く扱われる傾向があるが、イシグロは、ジャンル小説とみなされている犯罪小説、SF、ファンタジーといった異なるジャンルに挑戦してきた。作品は映画化もされており、文芸小説としては大衆小説に近い人気を持つ。特に政治的な作品はなく、一般人がふつうに楽しめる小説を書く作家である。

そんなイシグロが今年ノーベル文学賞を受賞したことには、大きな意味があると言えるだろう。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫) / カズオ イシグロ
遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)
  • 著者:カズオ イシグロ
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(275ページ)
  • 発売日:2001-09-01
  • ISBN:415120010X

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忘れられた巨人 / カズオ イシグロ
忘れられた巨人
  • 著者:カズオ イシグロ
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(416ページ)
  • 発売日:2015-05-01
  • ISBN:4152095369

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日の名残り (ハヤカワepi文庫) / カズオ イシグロ
日の名残り (ハヤカワepi文庫)
  • 著者:カズオ イシグロ
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(365ページ)
  • 発売日:2001-05-01
  • ISBN:4151200037

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わたしを離さないで / カズオ イシグロ
わたしを離さないで
  • 著者:カズオ イシグロ
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(349ページ)
  • 発売日:2006-04-22
  • ISBN:4152087196

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浮世の画家 (ハヤカワepi文庫) / カズオ イシグロ
浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)
  • 著者:カズオ イシグロ
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:文庫(319ページ)
  • 発売日:2006-11-01
  • ISBN:4151200398

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初出メディア

Newsweek日本版

Newsweek日本版 2017年10月10日

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