書評
宮下志朗ほか訳『フランス・ルネサンス文学集1』足立巻一『やちまた』
未知なるがゆえに生まれる創造/想像力
十六世紀のフランスにアンブロワーズ・パレという医者がいた。床屋外科医より始めて国王の首席外科医になったのだから、それなりの人物だったのだろう。その人が晩年に「怪物と驚異について」を著した。計五十七点の図解つきで訳され、『フランス・ルネサンス文学集1』に収めてある。図をながめているとすぐにわかるが、中国の『山海経(せんがいきよう)』、あるいはボルヘスの『幻獣辞典』を思い出させる。人間の顔をもつ鳥、頭がひとつの双生児、人頭魚身の生きもの……。思い出によると魯迅(ろじん)は幼いころ、宝の書として『山海経』をたのしんだようだが、空想好きの少年が、いろんな生きものの部分を組み合わせると、よく似た怪物のカタログができるだろう。
パリの元医者の場合は空想でも組み合わせでもなく、つねに原因があって、その結果として生じた異形の者たちだという。だからフシギの現象を引き起こす十三の原因をあげていった。「その第一は、神の栄光である。第二は神の怒りである。第三は精液量の過多、第四は精液量の過少、第五は想像力」。すべて原因をあてはめて因果関係に及ぶところが、いかにもデカルトの同国人らしい。
おそらく未知のものに対する不安や畏怖(いふ)が投影されているのだろう。おおかたは想像の産物だが、多少の事実や伝承があり、それをふくらませ、科学的に色づけをしたにちがいない。こういう珍品と出くわせるのがアンソロジーのたのしいところである。
足立巻一(けんいち)の『やちまた』は1974年の単行本以来、ほぼ二十年ごとに版元をかえて刊行されてきた。名著だが売れなくて絶版になる。それを惜しんで、目のいい編集者が上司を説得して本にする。それがまた絶版になる―。
タイトルは江戸後期に出た警抜な日本語の動詞活用の法則論『詞八衢(ことばのやちまた)』にちなんでいる。著者本居春庭(はるにわ)は本居宣長の長男で、成人してのち失明。盲目の身で学問に励んだ人。その春庭の評伝であるが、なんとフシギな書き方がされていることだろう。上巻の500余ページの多くは、伊勢にあって神宮司庁の経営になる神宮皇學館の学生時代のことなのだ。そこではじめて春庭の著書を知るわけだが、みずから相続を拒んで養子「本居太平方厄介」となる生きざまと並行して、皇學館の学生仲間、個性ゆたかな教師たちの生態がめんめんとつづられていく。
そのころ、実のところは途方に暮れていた。
文中の「わたし」はくり返し往き迷うが、それは読者の思いでもある。春庭が活用法則の発見にいたるまでの過程を追い求めることが、著者みずからの人生の過程を追い求めることとかさなってくる。時あたかも日本が泥沼のような日中戦争に深入りしていくさなかであって、いつ召集令状が舞いこむともかぎらない。
上巻では、点景として語られる教師たちが、ひときわ印象深い。学・才とも並外れていたにもかかわらず帝国大学にいれられず、神宮司庁の特異な大学にいきついた。「八衢」の衢は「ちまた」と訓(よ)んで「まちなかの道、よつつじ」のこと。ここでもつねに未知への不安と畏怖が介在して、八つのちまたを往き迷わせる。
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