読書日記

赤岩州五『新宿・渋谷・原宿 盛り場の歴史散歩地図』(草思社)、宮脇孝雄『翻訳地獄へようこそ』(アルク)、芝紘子『歴史人名学序説』(名古屋大学出版会)

  • 2018/09/07

家族人類学と歴史人名学のコラボレーション

×月×日

七月の末から八月の初旬にかけて、毎年、やけに忙しい。十年ほど前から文科省が年三十週の授業を大学に義務づけたため、七月は第四週まで授業が行われることになり、レポート約二百枚をたった一週間で読んで採点しなければならなくなったからだ。そんなことですっかり忘れていたが、今年は一九六八年から五十年。あの年、東大教養学部は七月から無期限スト入り、なんと翌年の十一月まで授業は再開せず、その間、私のような軟弱分子までがヘルメットを被るほどに状況は激変したのだ。とにかく明日がどうなるのか、だれにも予測できない非日常の連続であった。いまでも思い出すのは、十月八日に新宿で一回目の大騒乱があった夜、山手線で渋谷に戻ってくるとなにごともなかったように平穏に街が動いていたこと。「燃えるアヴァンギャルドな新宿」に対して「平和でのんびりした、野暮ったい渋谷」という対比が鮮烈な印象として残っている。

赤岩州五『新宿・渋谷・原宿 盛り場の歴史散歩地図』(草思社 二〇〇〇円+税)は、伝説の地図雑誌「ラパン」の編集長だった著者が集めた詳細地図を惜しげもなく繰り出して新宿・渋谷・原宿の激変振りを浮き彫りにした試みだが、とくに興味深かったのが「歌舞伎町は、なぜ歓楽街となっていったか」と題された章。というのも私が最初に新宿歌舞伎町に足を踏み入れた一九六〇年代半ばには歌舞伎町は「新宿コマ劇場」を中心とする健全な映画館の街でいささかも風俗街ではなかったからだ。その印象が間違いではなかったことはこの章で証明されている。すなわち、敗戦直後に新宿復興のため歌舞伎劇場建設を目論んだ鈴木喜兵衛という人物の趣旨に賛同した台湾出身の林以文(ルビ、りんいぶん)らの台湾人華僑は花道通りに結集したが、一九六〇年代に借地権から土地所有に切り替わるさい、一部のオーナーが交替を余儀なくされた。これが激変の原因だったようだ。「一九六〇年代後半、建て替えで古い店舗や家屋が壊されてビルになり、貸しビル業が急増する。建て替えに際し、住まいを郊外に移す所有者も多くなった。また土地が高騰したため売り払い、歌舞伎町から離れてしまう人もいた。それらの跡地に建てられた貸しビルに飲食店やバー、ピンク系サロンなど風俗店が無制限に入っていくことになる」

いっぽう土っぽい盛り場だった渋谷がお洒落な街に変容したのは、戦前に百軒店を開発しながら撤退した西武資本が堤清二率いる西武流通グループへと姿を変え、一九七三年から公園通りに進出し、パルコ戦略を展開してからである。

火災保険会社が作成した詳細地図を眺めていると、忘れられた映像までが記憶の底から蘇ってくる。盛り場学を志す者、必携の文献である。

新宿・渋谷・原宿 盛り場の歴史散歩地図 / 赤岩 州五
新宿・渋谷・原宿 盛り場の歴史散歩地図
  • 著者:赤岩 州五
  • 出版社:草思社
  • 装丁:単行本(133ページ)
  • 発売日:2018-07-23
  • ISBN-10:4794223439
  • ISBN-13:978-4794223432
内容紹介:
江戸時代には場末の新宿・渋谷・原宿は発展をとげ駅の乗降客数の増加を見てもいまやますます大きな盛り場となっている。
本書は戦前戦後の街の変遷を、各種地図や詳細な店名入り住宅地図などを使ってたどった「歴史街歩き」本の一種である。
「忠犬ハチ公の歩いた道筋は」など、各種話題も楽しい本。

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一九六八年の夏休み、英文に進学するつもりだった私はテリー・サザーンの『キャンディ』から入ってケルアック『オン・ザ・ロード』、フォークナー『八月の光』へとペーパーバック版の原書で読み進んだが、そのとき、翻訳の誤りの多さに気づいて「これぐらいなら、おれもいずれは翻訳家に」などと図々しい野心を膨らませていたが、 その調子で英文の翻訳家になっていたら手ひどい誤訳をたくさん犯していただろう。宮脇孝雄『翻訳地獄へようこそ』(アルク 一六〇〇円+税)は、英語の翻訳家となるにはまず英語と英米の文化情報をしっかりと頭にたたき込んでおく必要があることを説いた好著である。たとえばjumper はアメリカ英語ではジャンパーの意味だが、イギリス英語ではセーターを意味する。またケンジントンにあるHolland Houseは辞書には「オランダ屋敷」という訳語が載っているがこれはホランド伯爵の持ち家だった「ホランド館」のこと。また、andの前にコンマを置くオックスフォード・コンマについての蘊蓄やドアをプッシュすることは部屋に入るのか出ていくのかの議論など、翻訳家ばかりか普通の英語読みまで役立つ情報満載であるが、なかでも感心したのはShe felt compelled to glance over her shoulder.の訳し方についての説明。これを「彼女は肩越しに振り返りたい衝動に駆られた」と英文解釈的に訳すと誤りになることがある。「この文で書き手がいいたいのは、『振り返った』ことであり、『衝動に駆られた』ことではないからである。つまり、『彼女は衝動に駆られて肩越しに振り返った』あるいは『彼女は矢も楯もたまらず肩越しに振り返った』などと訳すべきである」。なるほど、これはフランス語でもアナロジーが効くので心に刻んでおこう。

いわゆる「上から目線」の誤訳の指摘ではなく、翻訳者はどうすれば誤訳しないですむのかということを、同業者組合の研修会のような感じでおもしろく論じた傑作エッセイ集である。

翻訳地獄へようこそ / 宮脇 孝雄
翻訳地獄へようこそ
  • 著者:宮脇 孝雄
  • 出版社:アルク
  • 装丁:単行本(202ページ)
  • 発売日:2018-06-22
  • ISBN-10:4757430744
  • ISBN-13:978-4757430747
内容紹介:
『死の蔵書』や『異邦人たちの慰め』など、エンターテインメントから文学まで多様な作品を訳してきた宮脇孝雄が、数多くの翻訳実例も引用しつつ、翻訳のやり方を実践的に紹介。読めば読むほど翻訳者の苦悩と翻訳の奥深さがじわじわ伝わってくる一冊です。悩める翻訳者と海外文学ファン必読。地獄で仏の実践翻訳ゼミナール。

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九月からエマニュエル・トッドの家族人類学を援用した「《日本=二本》の歴史の謎解き」(仮題)の連載を開始することになっているので、夏休み中に日本史ばかりか民俗学、歴史人口学などを集中的に読書しなければならないが、ここに来て、芝紘子『歴史人名学序説 中世から現在までのイベリア半島を中心に』(名古屋大学出版会 五四〇〇円+税)によって、歴史人名学というとてつもなく面白い学問が存在していることを知ってしまったので、人名にも気をくばらなければならなった。では「歴史人名学」とは何なのか? 著者によれば、「姓名という切り口から社会を捉え直すことによって、これまで感知されなかった社会の諸事象間の意外な側面や関係性をあきらかにし、それらの事象自体の理解をより深めさせる研究」と定義できる。その深化のプロセスは、コンピューター技術の発達で基礎データの膨大な集積が可能になったことで人口学がクロス・レフェランスを通じて歴史人口学という新しいジャンルを生み出したのと似ている。

まず、ローマ帝国末期から中世初期にかけてだが、この時期にヨーロッパ、とりわけイベリア半島の姓名システムは大きく変化する。キリスト教の影響により、ガイウス・ユリウス・カエサルのような「名・氏族名・家名」の三連命名法は衰退して、単一名だけの命名法となる。キリスト教が祖霊信仰は異教と関係すると見なしたからである。当初、ラテン系、ゲルマン系、アラブ系など単一名のストックは多かったが、十世紀以後、ストックが縮減し、 名の集中が行われる。中世初期には信徒の名に無頓着だったカトリック教会が幼児洗礼を介してキリスト教的な名を普及させていったためだ。初め、命名は地方殉教聖人にちなんでいたが、すぐに流行遅れとなり、福音伝道者などの大聖人の名が人気となり、集中はさらに進む。ところが、中世盛期に大きな変化が訪れる。家産の継承者と目される息子一人ないしは二人に「要となる男性名」が付けられることが多くなり、やがて祖父の名を孫の男子に付ける習慣が現れ、次に父の名を長男に与える習慣へと変化する。「名は家族構造とはなんのかかわりもなかった。しかし祖父または父の名を与えられた息子が家族の過去と将来を結びつける人物とみなされ、祖父・父の名をその権力および家産とともに相続する長男の特権的地位が確立していくにつれて、名は家族構造と密接に結びつくにいたる。典型的には、封建秩序が確立した地方において直系家族となって現れる」。

ここから単一命名法→二要素命名法というジャンプはほんの一息であるが、地域により家族構造が異なったためだろうか、移行のスピードには、同じイベリア半島でも西と東ではかなりの差があった。これぞまさに家族人類学と歴史人名学のコラボレーション! 新しい学問の誕生と呼んでいい画期的な一冊である。

歴史人名学序説―中世から現在までのイベリア半島を中心に― / 芝 紘子
歴史人名学序説―中世から現在までのイベリア半島を中心に―
  • 著者:芝 紘子
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(308ページ)
  • 発売日:2018-07-02
  • ISBN-10:4815809127
  • ISBN-13:978-4815809126
内容紹介:
名前に刻まれたヨーロッパ社会の軌跡。家族・親族の結びつきやアイデンティティのあり方、封建制と家族・ジェンダーの関係、フロンティア社会と文化移転、キリスト教の浸透・教化など、人名という新たなプリズムを通して過去・現在の社会・心性を色鮮やかに浮かび上がらせる。

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