背筋に戦慄が走る、平凡な町の秘密
ディンマス、というのはイングランド南西部、ドーセットの海岸沿いにあるとされる架空の町だそうだ。架空といっても幻想的なところはなく、実在以上にリアルに描き出される町とそこに住む人々が、読後、がっしりと爪を立てて心をつかみ、居座る。ディンマスの子供たちもよその子供たちと同じで、みんな空想の中にも生きていて、大人よりもずっと頻繁に旅をしていた。子供たちは町から一歩も出なくても旅をすることができる。
冒頭近くにさらりと挿入されたこの文章がなにを意味するのか、読み進むにしたがって理解されてくると、背筋に戦慄が走る。
小さな町の、復活祭の前の十日間。それぞれに小さな不満や秘密を抱えつつも穏やかに暮らしている人々の前に、十五歳の少年ティモシー・ゲッジがあらわれることで、人々の十日間はかき乱されることになる。
父親に去られ、母にも姉にも大事にされていないらしいティモシーは、ふだんから他人の生活を覗き込み、聞き耳を立て、神経に障る話し方で町の人々を苛立たせる傾向はあった。しかし、これほどまでの事態を引き起こしたのは、「復活祭の野外行事のタレント発掘隠し芸大会」に出たい、喝采を浴びたい、そこで注目されてテレビのスター発掘番組に呼ばれたい、という子供じみた願望ゆえなのである。
悪趣味きわまりない、殺人鬼と殺される三人の花嫁をネタにする「死をテーマにした爆笑コント」をやるのに、緞帳(どんちょう)だの、花嫁衣装だの、死体が入るバスタブだのがぜひとも必要だと、ティモシーは考える。そして、町の住民に衣装や大道具を提供させるための取引材料として、自分が知っている「秘密」をちらつかせるのだ。
ティモシー・ゲッジの存在が奇妙な後味を残すのは、この頰骨の張り出した、バランスの悪い体型の、黄色いシャツを着た腹立たしい少年が、悪意そのものとはズレたところに真意を持っているからだろう。ティモシーは真実を(あるいは真実だと思い込んでいることを)語っているだけなのだし、目的は「タレント発掘隠し芸大会」に出ることであって、人を傷つけることじたいではない。「秘密」や「真実」がどれほど鋭いナイフで、どれだけ人を破壊するかに、ティモシーは無頓着だ。
それでも彼は「秘密」を暴き、夫婦を、親子を、友人を次々と崩壊させていく。町の人々の恐怖と怒り、悲しみと動揺と苛立ちが痛ましい。
見事なのは、息をつく暇もない「秘密」の暴露の嵐が、復活祭のお祭り騒ぎの中でふいにペトゥラ・クラークの陽気な歌声に紛れていってしまうラストだ。薄気味の悪いティモシー・ゲッジすらも、川沿いに研磨紙工場を持つディンマスの町の風景に重なっていく。そして、この町の大人たちはかつてみんな、ディンマスの子供たちだったことに気づくのだ。
宙ぶらりんで救いがないのに、読み終えたときに周りを見回せばそこに凪(な)いだ海があったというような不思議な感覚がある。
短編の名手として知られる作家だが、一九七〇年代に書かれたこの長編小説を読んだ後では、トレヴァーの小説の長いのと短いのとどっちがいいか、という質問はとてもばからしく感じられる。