- 著者:J・P・マンシェット
- 出版社:早川書房
- 装丁:新書(177ページ)
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『狼が来た、城へ逃げろ』でフランス推理小説大賞を受賞、ロマン・ノワールの新星と評される。後年の『殺戮の天使』や『眠りなき狙撃手』などはシュールな色合いすら帯びており、ロマン・ノワールの極北をきわめたと言える。
一九九五年、死去。
はじめてJ=P・マンシェットの『地下組織ナーダ』を読んだときの衝撃は、いまも忘れられない。過激派グループ〈ナーダ〉によるアメリカ大使誘拐の顛末を描く本作の激烈な暴力、冷笑的な虚無感、極端な疾走感は異様だった。しかも、その異様さを醸成しているのは犯人グループではなく、それを追う警部ゴエモンのほうなのである――徹底的に過激派グループを憎悪し、ゴミ屑のように殺戮する刑事。それを描くマンシェットの嘲弄するような筆致。これほど「体制」への呪詛を含んだ小説、これほど「体制」の暴力装置性を暴きたてた小説はめずらしいだろう。
マンシェットは、いわゆる五月革命世代で、古典的な義理と人情のロマン・ノワールの世界に変革を起こした作家のひとりだ。マンシェットやA・D・Gら、この世代のノワール作家の多くは、政治性のつよい作品を発表し、自身もラディカルな政治思想の持ち主だった。
そんなマンシェットの政治性が顕著に現れたのが『地下組織ナーダ』だったのだろうが、しかし、この小説はただの左翼プロパガンダとは思えない。ゴエモン警部が体制側の殺戮者なのは判る。だが対抗する〈ナーダ〉も、同類のサディスト集団にしか見えないのだ。
マンシェットが、じっさいにどれほど左翼思想を保ちつづけていたのかは判らない。だが『地下組織ナーダ』に見え隠れするのは、政治的手段であるはずのテロリズムが、いつのまにか目的を失い、行為者の暴力衝動の解放にすり変わってしまうさまを冷笑的に眺める視線だ。政治という名目で粉飾された、倒錯した衝動の噴出。目的を喪失し、ただ暴力衝動だけが自走をはじめ、暴走してゆくさま。
同じような状況が、『狼が来た、城へ逃げろ』でも描かれている。富豪の甥とともに誘拐された若い養育係の女が、甥を連れて誘拐犯のもとから逃走、それを誘拐犯たちが追跡する、というのがメイン・プロットなのだが、マンシェットは逃亡/追跡の両者に歪みを与えて、物語を異様な方向に暴走させる――精神を病んだ養育係は官憲に異常な恐怖を抱いており、警察に助けを求めず自力で屋敷へ戻ろうとし、誘拐犯は常軌を逸した残虐性をもって邪魔者を殺戮しつつ追撃をつづける。リアリティは、物語のどこかで剥離してしまうのだ。筆致も相変わらず冷笑的で、血みどろの逃走/追跡劇を突き放して叙述してゆく。
それゆえに、この作品は、おそろしくインモラルで虚無的で残虐な、コメディの様相を呈する。『地下組織ナーダ』も同様だし、私立探偵小説として開幕しつつも、中盤で一挙に物語がまったく別物に変容する怪作『危険なささやき』もそうだ。無造作に破壊される人体。過剰な激烈さをもって叫ばれる憎悪。どれもリアリティを欠いている。『危険なささやき』の後半など、悪趣味な冗談で埋められていると言ってもいいくらいだ。
暴虐を笑いに転化する視線。対象を突き放す冷徹な散文。これが頂点をきわめたのが、後期の作品『殺戮の天使』である。だがこの作品には、コメディの要素はまったくない。シリアスでもダークでもない。むしろ美しく、透明――徹底した殺戮の物語なのに。
この作品は、まったく心理描写を欠いている。主人公(と呼べるほど読者の感情移入を喚起する手がかりはないのだが)の女が、ある街を訪れ、ただひたすら殺戮を遂行する。動機も何も、まったく説明されない。きわめて抽象的な物語だ。ここで描かれているのは、純粋な殺戮行為、それの醸し出すある種の「機能美」のようなものだ。モラルだの思想だのを超えた、ひえびえとした殺戮の美。リアリティをぎりぎりまで殺ぎ落とした異界でのみ成立する、美しい暴力小説だ。そしてその冷徹な散文は、最終ページにおいて、「小説」という枠組み自体から駆け去ってしまう。
マンシェットは『地下組織ナーダ』で、政治的テロの思想と、そのじっさいの行為のあいだの乖離を摘出した。『狼が来た~』でも、目的から乖離してゆく暴力的な妄執を描いた。やはり抽象度の高い後期の作品『眠りなき狙撃者』では、主人公が神経症に陥り、精神と肉体が乖離してしまう印象的なパートが配されている。抽象的思想と具体的行為の乖離。目的と実行行為の乖離。精神と肉体の乖離。マンシェット作品は、このモチーフを共有しているように思われる。それが過激な政治活動の経験のなかでマンシェットが感得したもののゆえかどうかは判らない。だがテロリズムが内包する暴力による思想の疎外が、マンシェットに意識されていたとしても不自然ではない(単独処女作『L'affaire N'Gus-tro』も政治的テロをモチーフにしたものらしい)。
マンシェットほど徹底して暴力を描きつづけた作家は稀だ。日本語で読める作品に関していえば、すべての主題は暴力に他ならない。政治的暴力を描く『地下組織ナーダ』。思想や倫理のくびきから解き放たれた「純粋暴力」の美を現出させた『殺戮の天使』。少なくともこの二作は、暴力小説の究極形として、記憶に残されるべきものと信じる。
【必読】『狼か来た、城へ逃げろ』(早川書房)、『地下組織ナーダ』(早川書房)、『殺戮の天使』(学研)