コラム

書評を楽しくするには

  • 2017/07/05
新聞の書評が面白くない、という声をしばしば聞く。つい先頃まで書評を書いていた私自身も、感じないことではなかった(ALL REVIEWS事務局注:本コラム執筆時期は1993年頃)。これは読んでみよう、買ってみようという気になる本が一冊もないことすらある。なぜだろう。書く側、読む側双方から考えてみたい。

第一に、よくいわれることだが、文章量の問題。新聞書評は圧倒的に分量が少ない。『毎日新聞』が二千字と千四百字の書評、四百字の短評の三段階になって、それ以前よりずっと書きやすくなった。ほかの新聞はいまも八百字~千字が多いだろう。となると、梗概に終わる。単刀直入に切り出して、内容を並列し、最後に一言くさす、またはほめる、とパターン化されやすい。千四百字あると、冒頭にちょっとエッセイ風の導入、たとえば本との出会い方、その著者の他の仕事についても書けるし、類書との比較をする余裕も出る。本当に書評を読みたい読者には、長い方が楽しめるだろう。

一方、新聞の読者の多くは、忙しい日常の中どの本を読むべきかの判断を急ぎ書評に求めているのであって、なまじ随筆風の飾りはいらない、名文である必要もない、むしろその分野のプロに正確な評価を迫るのだという説もある。

日本の新聞書評は欧米のそれと比べ短かすぎる、ともよくいわれるが、このことは一概には言えない。欧米の少部数の知識人向けクオリティ・ペーパーと、五百万とか八百万の部数の新聞とでは、読者が求めるものはちがっていて当然だろう。

加えて日本の新聞書評には批判がない、いいことばかり書くという意見もあり、それは貴重な指摘だが、書く側からすると、ことはそう単純でない。百八十字の短評だの八百字の書評の中で批判をやったらどうなるか。切り捨て御免になってしまう。しかも何百万部の新聞で批判するというのは重いことだ。また、人格非難と切り離された冷静な論争がむずかしいといわれる日本で、はたして読者が「批判」をそれこそ批判的に受けとめ、むしろ面白がってその本を読んで検討してみようと考えるかどうかである。ならやめた、になってしまうのではないか。読者の興味も触発する芸のある批判を試みようとしてみるが、なかなかうまくはいかない。


次に書評が本来、「権威のあるもの」とされてきたため(いや本当の知的権威はなくてはこまるが)、書評委員は大学教授に多く任されてきた。しかし本を読むのは大学教授ばかりではない。広い職業の中に、的確な書評をできる人がいるはずである。女性の委員もまことに少ない。大学教授と並んで知的職業とされる弁護士とか臨床医、建築家、また音楽家や画家などもほとんど書評委員にはいない。たいてい、某大教授(ついでにいうと大学の名前よりも専門を銘記してもらいたい)、作家、歌人、評論家などの肩書きが並ぶ。

こんなことをいうのは、私が書評委員をしていた頃、委員会で選ばれる本の分野にかなりバラつきがあったからである。委員に専門家の多い文学、哲学、西洋史、経済学、科学史、美術などの本はよくハケるが、女性問題、建築・都市計画、医療、福祉、教育、環境、市民運動などの本はごっそり残る。この中に良い本があったら著者に申し訳ない、と無理して持ち帰り、読むのに七転八倒した。書評委員を選ぶ段階で、もう少し幅広い人選をしてくれればいいのに。しかし、専門を超えた分野の書評、これはときに面白いことがある。たとえば天文学者の池内了氏が文科系の本を書評したものなどに目をみはった。書評者には、もっと積極果敢に分野をのりこえてほしい。

一方、読者として思っていたのは、なぜこんなに高みから、自分の知識をひけらかすような書評が多いのか、ということだった。自分の感動を素直に語り、あるいは紋切型ではない自分の言葉で語らないのか。自分で試みるとこれも容易でなかった。日本の競争社会がつねに他との差異を見せつけることで成り立ってきた癖が出るようにも思う。いい本と出会う。良かったな、楽しいな、という原初的なことが書評の場ではあまり重要視されないようだ。

自分の感動を書評に反映させる、それを難かしくするもう一つの障害がある。そうでなくとも本に取り囲まれて暮らしているというのに、新聞の書評委員となると、かならず各方面からどさどさと本が送られてくのだ。

段ボールの箱に、よくまあかけはなれた本ばかり集めたな、と思うとりあわせで毎月、送ってくる社もある。大手出版社ばかりではない。三八(さんや)つ広告(新聞一面の下のタテワリ広告)もなかなか出せない小出版、はじめて自分史や詩集を出した方々も、送って下さる。思い入れが本から立ちのぼる。

最初のうちはセッセと礼状も書き、すべてに目を通していた。しかし毎日、仕事場にも自宅のポストにも届くのである。いくら時間があっても足りない。そのうち書籍小包というものを開けるのすら吐気がしはじめる。こんなことで、清新な、人を感動させる書評がうまれるわけがない。

本がタダで読めていいわね、と友達はいう。しかし、結局、身銭を切って買わない本は身につかないのではなかろうか。お小遣いをためて念願の本を手にしたときのあの天にも昇る心地。紙の匂い、本の肌ざわり。活字に押された紙のへこみ……。それらの喜びが失われてしまう。

書評者を続けていると、本の内容というよりは、本そのものを見くびるようになる。それが恐い。それでタイトルに興味のない本は申し訳ないがすぐさま近所の図書館に寄付することにして、ずいぶん気持がラクになった。 書評委員にたずさわって、「思ったより、新聞書評はフェアにやっているな」と感じた。一方で自分の出した本について考えると「書評にとり上げられる、というのは運もあるし恣意的なものも混じるな」という両方の思いがある。

半月で千五百点出ている新刊の中から記者の目でセレクトされて書評委員会に出てくる本はせいぜい二百点くらいだろうか。どこかで漏れている良書もあるにちがいない。書評委員受けする、ちょっとひねったお酒落なタイトルというのがあるし、書評美人といおうか、信頼度が高く書評されやすい出版社もたしかにある。

一方、書評されにくい出版社、著者、ジャンルというものもある。時代小説、ミステリー、SF、身辺エッセイなどがそうである。

だから逢坂剛さんが『毎日』の書評委員になられ、出久根達郎さんや宮部みゆきさんの本を次々取り上げたのは画期的なことだった。この方面の作家の中には「こんなに売れているのに書評が出ない」と不満を持つ方が多いと聞くが、いまの書評のシステムにはのりにくい。書評に対する幻想は捨てて、売れているという読者の支援に自信を持つべきかもしれない、エンタテイメントにつよい『本の雑誌』もあることだし。

地域雑誌や地方出版はもっと冷遇され、名の通った出版社の単行本よりそもそも一段低いものと思われている。国際派ジャーナリストがカッコ良く、地方支局つとめが〈ドサ回り〉などと蔑称されるのと同じである。

また書評をつまらなくする一つの理由に、この「ギョーカイ」の狭さもあるように思う。いそがしい人ほど自分で本を探さず、つい送られてくる知り合いの本をとり上げてしまうのではなかろうか。女性誌などで常連執筆者の本が出るとかならず書評が載ったりするのは信用がおけない。こうやって書評スペースは寡占化されやすいのである。

その点『朝日新聞』の書評委員会が、在任中は書評委員の本を取り上げない、としているのは一つの見識かもしれない。しかしそのために本当にいい本が書評されない、という場合があるわけで、ルールもあまり堅苦しく考えると硬直化して、妙な権威主義に転化することもあり得るだろう。また衆議で取り上げることを決めた場合、好きでもない本について書く場合もありそうだ。

発行所や著者のネームバリューに左右されず、いい本をみつけようとすることは楽しかった。とりわけ有名でない著者、広告を出しにくい小さな版元を意識して取り上げようと、よく神保町の地方小出版センターに立ち寄って、書評する本を探した。

東京にいてモノを書く生活をしていると、どうしても本を出す人間とかかわりやつきあいができてしまう。対談、シンポジウムなどでお目にかかることも多い。公正な書評を目指すなら、なるべく執筆者と出会わないことだ、と思う。

しかし、モノを書く人にはなかなか魅力的な方も多く、いったん友人になってしまうと、人柄の力も加わって、その書いた本も魅力的に見えてくるのである。虚心坦懐には読みにくい。それを十分差し引いた上で「これはいい本だ」と思ったときだけ書評したが、知り合いの本を書評するのはじつにむずかしい。

立場かわって自分の本を書評していただいた場合。本当なら御礼状を書けば良いのだろうが、ズボラもあってほとんどしていない。評価していただいた喜びを心に留めて、謙虚に次の良い仕事をするのが唯一、報いる道ではないかと思ってそのままになっている。書評される側とする側の距離が近いのはよくない。だから自分が書評した場合も著者からの反応を期待したことはないが、それでもたまに礼状などいただくとうれしくなるのは、たわいなくも人の情だろうか。

書評者の位置と関連したことで、匿名書評と署名書評の問題がある。このところ、書評は全体に署名入りになる傾向にある。これは書評という日本では報われにくい仕事の自己主張でもあり、評者の個性こみで楽しみたい読者の欲求の反映でもあろう(無署名の頃は、「これは誰さんが書いたのかな」と文章のクセから当てる楽しみがあった。私も当てられたり、まちがわれたりして、書評委員会の楽しいゲームだった)。

『毎日新聞』ではあるときから、六本の書評のうち、二本がまず三枚(千二百字)にのび、署名入りとなった。このときはちょっととまどった。身構える、というか一時、のびのび書けなくなった。日本人には匿名批評を卑怯、潔くないとみる見方もあるが、そうとばかりはいえないのではないか。「署名が入ると、誉めれば内輪ボメではないかと思い、けなせばしこりが残るんじゃないか」などと心配する友人もいた。

そしてさらなる紙面刷新で『毎日新聞』は九二年春より、書評委員会システムを廃止し、二十数人の常連執筆者による交代執筆になった。書評委員会のかわりに「本をみる会」が有志の出席で開かれ、大体一月に一回強、書評の出番が回ってくる。字数は二千字と千四百字に増えた。これはまた、著者の名前より評者の名の方が大きい活字で記されるのが面はゆくもあった。読者にとっては、読みごたえのあるものになったろうことは否めない。書評欄によって『毎日新聞』の月曜日の朝刊のスタンド売りは飛躍的に部数がのびたそうである。

しかし、本そのものよりも書評家の方が前面に出るような書評が本当に良いのかどうか、私にはわからない。本や著者の匂いより、評者の匂いの方が時として強く出ている。私もそんな書評を二、三書いた。芸のある書評はいいと思うが、芸だけのアクロバティックな書評になる危険もなしとしない。

とにかく専門的な研究者でもない私が書評を書くときに心してきたことは、

一、本の内容がなるだけ正確に読者に伝わること(紹介)
二、その本の面白さ普遍的な価値が伝わること(評価)
三、その本を読んでみようと思わせること(誘い)

そしてできれば、

四、それを補えばこの本がもっと良くなるという足りない点を、著者や読者とともに考えること(提案)

であった。そして楽しんで書くこと、である。

これからの書評を面白くするには、巷の多くの読み巧者の参加を得ていくことではなかろうか。たとえば私は『暮しの手帖』の読者による書評の楽しさ、読み方の多彩さに驚く。
新聞に権威を重んじる書評欄があってもいいが、それ以外に、投稿書評や競合書評、本をめぐる論争があったり、ときには対談、鼎談、そして書評への反論などもあったら楽しかろうと思う。

それをできるだけ文筆業界、学界以外の人たちの手でやったらよい。書評担当記者の仕事は相当ふえるだろうから、担当者も増やしてほしい。現状でも政治部の番記者などにくらべ、書評欄の担当者の数は異常に少ないと思う。

結局、私は『毎日新聞』の書評の欄で、コラムを五年、書評委員を二年半、常連執筆者を一年、計九年近くやらせていただいた。ありがたいことである。一人の人間が同じ新聞に長くスペースを占有するのはよくないと降ろしていただいた。

私はまた一読者に戻ることができた。

週に一コマだけ教えている大学の帰り、吉祥寺で本を買い、井の頭公園に面したテラスで焼き鳥とレモンハイを頼んで、本を広げる。ああ、新緑が目にしみる。またこんな風にふらりと本が読める。線も引かないで良い、付箋もはさまずとも良い。そう思ったら空でも飛べるような気分になった。

【このコラムが収録されている書籍】
読書休日 / 森 まゆみ
読書休日
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(285ページ)
  • 発売日:1994-02-01
  • ISBN-10:4794961596
  • ISBN-13:978-4794961594
内容紹介:
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、… もっと読む
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、『ゲーテ恋愛詩集』、そして幸田文『台所のおと』まで。地域・メディア・文学・子ども・ライフスタイル―多彩なジャンルの愛読書の中から、とりわけすぐれた百冊余をおすすめする。胸おどる読書案内。

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