対談・鼎談

青木 保『文化の翻訳』(東京大学出版会)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2022/04/07
文化の翻訳 / 青木 保
文化の翻訳
  • 著者:青木 保
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(204ページ)
  • 発売日:2012-05-18
  • ISBN-10:4130033530
  • ISBN-13:978-4130033534

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山崎 いま人類学、狭くは文化人類学というのが一つのブームでありまして、特にわが国においては、学生の間ですら憧れの学問になりつつあるようです。そういう中で、若手の人類学者である青木保氏が、そうした人類学のあり方に対する自己反省をこめて、しかし文化人類学の現在の状況を入門的に説明してくれたものがこの本です。(ALL REVIEWS事務局注:本鼎談の雑誌掲載年:1978年)

ちなみにこの著者の文章は、ときどきひどく難解でありまして、これはある意味で一つの文化現象だとわたくしは思っております。この人が思索を始めた一九六〇年代というのは、学園紛争の時代ですけれども、同時にたいへん難解な文章の流行した時代で、学生のスローガンも、それまでの「アルバイトよこせ!」というのからだいぶ変り、「実存の自立を!」などと叫んだ時代です。そういう時代の子だなという印象をわたくしは受けました。

この人はそうした学生紛争の中で、泥まみれになったあげくに、一念発起して、タイ国へ渡った。そのうちに、人類学的調査というものは、真に異文化の中にとけこまなければできないんだという信念に立って、とうとうお寺に、お坊さんとして入ったわけです。そしてタイ国人がやる修行の一通りを体験して帰ってきた。それは『タイの僧院にて』という本になっています。

それから後の、独立した論文を集めた一種の評論集であります。

その中で、ともかくも読みやすい「異文化の理解」という文章をとりあげますが、これはまず最初に、有名なマリノフスキーの人類学の説明から始まります。人類学というのはフィールド・ワークが基礎である。すなわち研究対象の社会を身をもって現地で調査する。しかしその場合に、上からその文化を眺め下ろすような態度で、つまり鉛筆とノートブックを手に、ウイスキーソーダーを飲みながら調査をするようなことをしてはならない。真に研究対象の文化の中にとけこんで、その中で生活しなければいけない。これが現代の人類学のABCになっているというわけです。人類学者は誰でもそういった立場で研究を進めているし、それが無上の方法だと思われてきたけれども、はたしてそうであろうかというのが、筆者の疑問です。

いま人類学というのは、楽天的な、素朴なフィールド・ワークがやりにくくなっている現実があるわけです。まず第一に、研究対象とされている社会の人たちが、それぞれ自己主張をもち出して、その中へ入ってくる研究者に対して、警戒的な態度で臨むようになってきた。

その次には、そうした社会そのものも、つねに変化しつつあるし、現在それこそ世界が一つにリンクされている状況の中では、思わず知らずいろんなものが社会の中に入りこんでしまっている。だから研究者が、幸福な孤独を保って、相手側の本来の社会に入っていくことができにくくなっている。

さらに、一体われわれは、そういう異質文明の社会の中に、相手側を純粋な状態に保ったまま入っていくなどということが、現実的にできるだろうか。自分が入っていったということ自体が、その社会に対するショックになるわけで、そこにおのずからの変質をつくり出してしまう。そしてまた、人為的に自分を観察者として守って、いいかえれば、相手社会を自分の影響で汚染しないように努力すれば、またそのことが別の影響を相手社会におよぼすはずである。いってみれば、こうしてマリノフスキー以来の人類学の前提は、ゆらいでしまったわけです。改めて、文化の翻訳という問題、自分もまた一つの特定の文化に所属しているんだという事実を認めた上で、相手側の文化を自分の文化に翻訳しなければならない段階に来ている。そういうことをいっています。

木村 この本の趣旨に、わたしは大賛成です。現在われわれは世界的に相互依存の関係にあり、したがって互いに平和共存というのは不可避の問題になっているわけで、諸地域ごとに、どのような行き方があるかということを考えなくちゃならない時期になっている。そこで、それぞれ地域ごとの、異郷の神を畏れる、その感受性こそが大事である。つまり合理性では説き明かせない、心の奥底の問題というものを、文化人類学者が感じとり、それによって相手の心というものを、自分たちの考え方で翻訳し直す必要があるんだということを、著者は説いてるわけですね。

丸谷 文化人類学者の苦悶を高飛車に訴えようとする、その姿勢がむやみに強い本ですね。おそらくこの著者は、そうするにふさわしいだけ苦悶しているんだろうと思うけれども、しかし、読者のほうとしては、一種センチメンタルな感じを受けますね。

山崎 たしかにそうですね。

丸谷 だいたいぼくは、学者の方法論的反省というのは、あまり好きじゃないんです。一流の学者というものは、方法論的にあんまり反省をしないんじゃないのかなあ(笑)。

たとえば、

フィールドにおける研究者にとっての倫理とは、バーンズの指摘する以上の四点を守っていれば(といっても、一体守るとはどういうことなのだろうか)すむということではない。

という。これでは一体何をすればいいのかわからないじゃないの(笑)。これだったら学者はフィールドに行かないで、書斎にあって反省していることがまず最初になってしまう。ぼくは、こういう考え方はよくないと思いますよ。

木村 文章がとっても読みづらいですね。

スタイナーがオーキプ・マンデルシュタームの十六行詩のロバート・ローウェルの英訳を引用して、この詩をとことんまで読み尽そうと試みることがロシア語においてスタイナー自身がそれを行ない得ない以上、それは愚かなむなしいことであるというとき、それはスターリン治下のソヴィエトにおける唯一のロシア語を話すものとしての象徴性、つまりはこのスターリンについての十六行詩が惹き起した詩人を死に至らしめた逮捕という現実のコンテキストとともに、そこに示された詩としての言語のあらゆる可能性がそれ自体殺人を招くものであったということが、翻訳機械の接近を寄せつけない要素をひめるものであることを明示する。

これは一体どういうことなのか。

丸谷 ぼくもそこにはクエスチョン・マークを打ってあります。山崎さんどう?

山崎 わからない。

丸谷 この三人が不思議だと思う以上、不思議な文章なんですよ。

山崎 この本を読んで、わたくしは人類学そのものについて、非常に興味深いことに気づいたんです。
人類学というのは、根本的に、どうやらある社会が、外の社会に対して、自分を表現していない段階の文化、それを「未開」と呼んでもいいんですが、「未開」の文化に対してしか適用できない学問なのかもしれないということですね。「未開」という言葉はたいへん失礼な言葉であって、もう使わないことにしようと、人類学者自身がいってます。この青木さんという人は、その反省のどうやら最先端にいるらしい。一見未開に見えるタイ国の、迷信といわれるような部分をこそ理解しなければならないと彼はいうわけです。しかしその反面、彼が正直に書いているのを見ていくと、どうやら人類学というのは、本質的にやはりそうした未開を対象とする学問らしいんですね。

たとえばマリノフスキーがこういうことをいってるんです。

われわれは、その社会自体に属する一人の哲学者からはっきりとした明確で抽象的な説明を得ようと期待することはできない。原住民は己れの基本的な考え方を当然のこととして考えているし、もし何か信仰のことについて理由づけをしたり疑問をいだいたりした場合には、いつも具体的で細かい点についてそれを行なうのである

したがって人類学者は、情報を与えてくれる原住民に対して、概念化とか、あるいは理論化するような言葉を教えてはならないといっております。これはたいへん象徴的なことでしてね。たとえばヨーロッパの「大文明」は、その中に文学者もいれば、哲学者もいて、表現をおこなうのみならず、その表現に意味づけを与える批評家もろとも、ワンセットとして生み出してるわけですね。したがって、フランス文学者がフランス文学を勉強しようとする場合には、まずフランス人の語るフランス文学の説明を読んで、そこからスタートするわけですね。ところが文化人類学者というのは、それをやってはならない。つまりそれができないような社会に対して、みずから入っていき、その文化のために最初の解釈者、最初の表現者になってやらなければならない、こういってるわけですね。

その点については、青木氏も批判していない。反省もしていないわけです。

丸谷 この人はタイの僧院に入ってお坊さんになった。しかし、この人は仏教を信じてるんですか。これだけむやみやたらに反省してるくせに、どうして自分が仏教信者でないのに坊さんになったということへの反省がないのか。ぼくはそれが非常に不思議で、『藤十郎の恋』みたいな感じがするんだなァ(笑)。

木村 本当に異郷の神を畏れるんなら、お坊さんにはなれないんじゃないでしょうか。またタイのお坊さんになりきったとしたら、今度は著者のいうような、文化の翻訳を使命とする文化人類学者たりえないのではないか。わたしもそこは疑問に思いますね。

丸谷 この本のいちばん納得がいかないところはそれでした。

山崎 文化人類学と、比較文化論とどこが違うかというと、つまり比較文化論というものは、対象とされる文化そのものが、大きい声で自己表現をしている。したがって、外から来た学者は、その語られたものを翻訳するということになるわけですね。ところが文化人類学というものは、基本的にその当事者の民族が語っていないものを翻訳する。

いいかえれば、ここに作家がいて、その人の書いた作品を翻訳するというのが比較文化論だとしたら、まだ何も書いてない作家をつかまえて、その人の心の中に分け入り、彼の代わりに小説を書いてやろうというのが文化人類学だといえる(笑)。

丸谷 タチが悪いねえ(笑)。

山崎 そこで様々に悩んで、ひょっとして、わたくしはいまだ書かざるこの作家の心をうまく表現してないのではないだろうかと、四苦八苦しているのがこの本なんですよ。

わたくしはね、そんなこと本当に必要だろうかという気がちょっとしたんです。

丸谷 立つ瀬がないな(笑)。

山崎 わたくしは文化人類学が必要ないといってるんじゃないんですよ。そんなことで悩む必要があるだろうか。もっとざっくばらんにいってしまえば、自分の心を自分で表現しない人間は、それが個人であれ民族であれ、誤解されても仕方がないと思うんですよ。誤解というのはつねに当事者の責任である。

たとえば役者が舞台の上で泣く。お客がゲラゲラ笑った。そこで役者は舞台を駆けおりて、ひとりひとりのお客の胸ぐらとって、「いまわたしは悲しんでるんです」なんていったら、もの笑いですよね。つまり表現というものは、その当事者がしなければいけない。表現されていないものは、他人がいかように理解してもご勝手なんです。

木村 心の奥底まではお互いに感じ合い理解し合えないものがあるはずですよ。われわれの心の動き方、感じ方は、異郷の人びとの言葉と表現形式では完全にいい表わせないわけですね。だから心の奥底はむしろそっとしておいて、できるだけ寛容の精神を発揮しながら、表面に現われた言語と言語で関わり合うよう努める以外に、理解し合えるところはないんじゃないですか。

山崎 そうですよ。それでいいのであって、そこから先に何か誤解が残ったら、その国民の責任で、将来その中から偉大なる哲学者なり思想家が出てきて、自国文化を紹介してくれればそれでいいわけですよ。それまではこちらは誤解の権利がある。

木村 誤解の権利ねェ(笑)。誤解しても仕方がないということですね。

山崎 相互誤解の権利がある(笑)。

丸谷 他国の文化を別に理解しなくたっていいんですよ(笑)。

山崎 理解するに越したことはないでしょう。つまりおいしいものがあれば、他国の食い物であっても食ったほうが得ですからね。

丸谷 ええ、他国の文化だって、美しいもの、素晴らしいものであれば、それなりの意味において理解することが必要なんです。でもそうでないのに、ピイー(タイのお化け)がわからないからといってむやみに煩悶することはないわけよ。ピカソが黒人の彫刻に感心したり、印象派の画家が日本の浮世絵に感心したりする。そういう態度は、むしろ他国の文化に対する態度として非常に健全だと思うね。それを、自分がいいと思わないものを、何とかして理解したいと思って、悪戦苦闘して、それが理解できないといって煩悶したり反省したりするのは、人間として不健全なんじゃないですか。

木村 そうですよ。たとえ相手が女房だって、こっちの心の奥まで入ってこようとすると、いらいらする。あれはやめてもらいたい。あんまりしつこく迫られると、離婚したくなる。それと同じだと思うんです(笑)。

山崎 やはり文化人類学というのは、まず無文字社会の研究であり、無表現社会の研究までが限度であって、それをできるだけ正確にやるために感情移入の方法を使う。この常識的な範囲において、文化人類学というのは成立していると思うんです。それでいいんだと思う。そこから先は、比較文化論の領域に入るのであって、やがて現在の無文字社会、無表現社会が自分の言葉で自己表現を始めるようになったら、文化人類学は別の段階にはいるということですね。

文化の翻訳 / 青木 保
文化の翻訳
  • 著者:青木 保
  • 出版社:東京大学出版会
  • 装丁:単行本(204ページ)
  • 発売日:2012-05-18
  • ISBN-10:4130033530
  • ISBN-13:978-4130033534

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
鼎談書評  / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:-(326ページ)
  • 発売日:1979-09-00

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1978年7月17日

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