コラム

H・R・ジョリッフ『ギリシア悲劇物語』(白水社)、森鷗外『鴎外随筆集』(岩波書店)

  • 2023/07/09

サフラン色のサンダル

刑場にひかれる女のイメージが強く頭にある。太平より乱世を好むたちなのか、畳の上でだけは死にたくないと子どものころから思っていた。

たとえば八百屋お七(しち)。吉三(きちざ)会いたさ見たさに放火して捕えられ、火あぶりになった。フランス革命で断頭台に上がったシャルロット・コルディやマリー・アントワネット、スパイとして処刑されたマタハリや川島芳子。

中でも心魅かれるのは、子どものころ読んだギリシャ神話、トロイア戦争に登場するミュケナイ王アガメムノーンの娘イーピゲネイアである。

スパルタ王の妃、絶世の美女のヘレネーがトロイアの王子パリスに誘拐され、その奪回のため大規模な戦争が起こり、大勢の人命が失われる。ギリシャ方の総大将アガメムノーンはアウリスの港から出航しようとするが、女神アルテミスの聖鹿を射て、神威をないがしろにした。そのため、怒りを買って逆風がおき、船は出航できない。

そこで女神の怒りを鎮めるため、アガメムノーンは娘イーピゲネイアをよびよせる。表向きはギリシャ方随一の勇士アキレウスの花嫁に、というめでたい話。しかし、到着した姫の見たのは生贄(いけにえ)の祭壇だった。母の王妃クリュタイメストラは怒り、従者も泣きくずれる。しかしイーピゲネイアは国のため、人々のため命を捨てようといい、黄金色の髪をなびかせ、サフラン色のサンダルをはいて従容(しょうよう)として祭壇へ向かう。なんとけなげで気丈で、誇り高い女性なのか。

サフラン色とはどんな色だろう。ずっと心にかかっていた。花の名らしいが、その花も見たことがないのである。なんとなく淡紅色のような気がした。形はクロッカス、ヒヤシンス、アマリリス、そんなものかしら。語感はきれいだ。「さ思ふらむ」という古語や「サンフランシスコ」という地名にも似ている。

実物のサフランを見たのは何年かのち、デパートの香辛料売場で。生きた花ではない。セージやクローブやローズマリーやローレルと共にびんに入って売っていた。それは黒ずんだ黄色で、つまり花を摘んで干して、ブイヤベースなどの着色料として用いるのだそうである。なあんだ、日本でいえばさつまいもを色よく煮るためのくちなしの実のようなものだったんだ。サフランはそのちぢれていじけた干し花だかめしべだかがいくつか入って八百数十円もした。高かったが、何か長年の思いが果たされた気がして私は買って帰り、米をバターでいため、イカやエビを加えてスペインの炊き込みご飯パエリャを作った。サフランのおかげで鮮やかな黄色に仕上がった。

ギリシア悲劇物語 / H・R・ジョリッフ
ギリシア悲劇物語
  • 著者:H・R・ジョリッフ
  • 翻訳:内村 直也
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(318ページ)
  • 発売日:1997-10-01
  • ISBN-10:4560046379
  • ISBN-13:978-4560046371
内容紹介:
本書は、『メディア』をはじめ、『オイディプス王』『アンティゴネー』『エレクトラ』など、ギリシア悲劇を代表する10篇を精選し、平明な散文に書き改めた読物。難解なため敬遠されがちだったギリシア悲劇を理解するには恰好の一冊といえるだろう。著者による「ギリシア演劇について」と題する解説を併載。

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また数年がたち、私は森鷗外に「サフラン」という小エッセイがあるのに気づいた。

「名を聞いて人を知らぬと云ふことが随分ある。人ばかりではない。すべての物にある」

これは胸にずんと来た。子どもの時から本が好きだった鷗外は「器に塵の附くやうに、いろいろの物が記憶に残」った。蘭医であった父のオランダ語の辞書で、鷗外もサフランという語に撞着したのである。「洎夫藍」の字が当ててあった。

鷗外も本物のサフランに出会ったのはずっとずっとあと。汽車で上野に着いて、人力車を雇って団子坂の家に帰る際、薄暗い花園町で道端に筵(むしろ)を敷いて「球根からすぐに紫の花の咲いた草を列(なら)べて売つてゐるのを見た」。私はこれを読んで「おや、サフランは咲いていると紫色なのか」と意外に思った。同時に鷗外が子どものころすでにサフランに心を留め、「半老人」となって実物のサフランを見たことに近しい思いが湧いた。

「どれほど疎遠な物にもたまたま行摩(ゆきずり)の袖が触れるやうに、サフランと私との間にも接触点がないことはない」。鷗外の小文は尾竹紅吉(のち富本憲吉の妻一枝)のために書かれた。紅吉は「青鞜」から分かれて大正三年、「番紅花(さふらん)」という新雑誌を始めたのである。辞書を見るとサフランはあやめ科の多年生草木、南ヨーロッパの原産で、十月ごろ香気のつよい淡紫色の六弁の花をひらく、とあった。紅吉と番紅花の名も通ずる。ここにも一人、どうしてか、サフランに心魅かれた女人がいたのである。

住む寺の境内、白い菊の下にうす紫色のひよわな花が咲いた。形はクロッカスに似ていたが、秋に咲くわけはない。花にくわしい妹に聞くと、これがサフランだという。私が本物のサフランを確認したのは、じつにその名を知って三十五年目であった。

鴎外随筆集 / 森 鴎外
鴎外随筆集
  • 著者:森 鴎外
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(246ページ)
  • 発売日:2000-11-16
  • ISBN-10:4003100689
  • ISBN-13:978-4003100684
内容紹介:
鴎外は、幕末、津和野藩の下級武士の子として生まれ、藩校で漢籍を学び、上京して東大医学部に学んだ。軍医総監に上りつめ、最後は帝室博物館長として没した公的生活と小説家鴎外-封建的イデオロギーと漢籍の素養、近代西欧文明と自然科学者の眼が同居したこの巨人の息づかいが聞える随筆18篇。

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【このコラムが収録されている書籍】
深夜快読 / 森 まゆみ
深夜快読
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(269ページ)
  • 発売日:1998-05-01
  • ISBN-10:4480816046
  • ISBN-13:978-4480816047
内容紹介:
本の中の人物に憧れ、本を読んで世界を旅する。心弱く落ち込むときも、本のおかげで立ち直った…。家事が片付き、子どもたちが寝静まると、私の時間。至福の時を過ごした本の書評を編む。

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