コラム

谷崎 潤一郎『鍵』(中央公論新社)

  • 2020/10/22
鍵 / 谷崎 潤一郎
  • 著者:谷崎 潤一郎
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(240ページ)
  • 発売日:1973-12-10
  • ISBN-10:412200053X
  • ISBN-13:978-4122000537

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あやまる父、怒る父

父は昭和四十六年、五十四歳で亡くなった。

いまからちょうど三年前の春、父が戦前、上海の日本人学校で教鞭を取っていた、その教え子の方(かた)たちの同窓会に私は招かれた。亡くなったときの父よりすでに十歳ほども上になった人たちばかりだ(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1998年)。

原宿の中華料理屋で、円卓を囲んでの歓談だったが、そのとき、この同窓会が昭和二十八年、京都で開かれたとき、父も和歌山からかけつけて、教え子たちに土下座してわびた、という話を彼らは涙ぐんで、息子の私に披露してくれた。

父が、何を、上海時代の教え子にあやまったのかというと、そのころ施した軍国主義的教育についてだという。

私はひどく居心地の悪い思いにとらえられた。父が少年たちに軍国主義的教育を施したということはおどろくにあたらない。時代が時代だし、父はまだ師範学校を出たばかりの青年教師だった。

私を居心地の悪い思いにさそったのは、父が京都の旅館のたたみに土下座してあやまったというそのことだった。

居心地の悪さを感じているうちに、私の脳裡にとつぜん、洪水に流されてゆく本箱が浮かんだ。その本箱もなんとも居心地悪そうに右に左にかたむき、沈みきれず、電信柱にあたったり、流されてきた人家の屋根にのりあげそうになったりして、水に漂っているのだった。

上海製の紅木(マホガニー)の五段の小型本箱で、父が上海から引き揚げるとき、持ち帰ったものだ。その本箱を押し流したのは、昭和二十八年七月十八日、紀伊半島一帯を襲った大水害の濁流である。

父は、昭和十七年、結婚して、上海で新婚生活を送った。住居は虹口(ホンキユウ)の敏徳坊というところで、すぐ近くに陸戦隊本部や内山書店があった。紅木の本箱は南京路裏手の家具店で求めたものだという。この本箱に、内山書店で買った本がたてかけられていたのだろう。

ここで私の兄が生まれ、一歳半で疫痢で死んだ。十九年五月、日本の敗色が濃くなって、父は母を先に日本に帰らせることにした。すでに南太平洋、東シナ海の制空権は完全にアメリカが握って、帰りの船も爆撃されるおそれがあった。

そのとき、私は母のおなかの中にいた、と母はいう。しかし、私は昭和二十年十二月生まれなのだが……。

昭和十九年五月、東シナ海をひとりぼっちで渡る母のおなかの中にすでに私はいる。そして、私はそれから一年七ヵ月後に生まれてくることになる。母は、船が沈んで、死体が海に浮かんでどこかに流れついても、身許が分かるようにと、父の写真や上海居留民証明書を縫いこんだ帯を体に巻きつけていた。きっとそのとき、未来の私の懐胎の記憶も宿ったのだ。

その数ヵ月後、父は割とのんびりと、家財道具をまとめて帰国した。紅木の本箱もいっしょである。

戦後の父は、教員生活ののち、日教組執行部に入り、社会主義者として政治活動をつづけていた。父の書斎には、壁につくりつけの大きな本棚とは別に、机のそばに上海製の本箱があった。この本箱には、だいたいいつも新しい「世界」と「改造」と「中央公論」がたてかけられていた。私はこっそりこの本箱から、中央公論を抜き出して、谷崎の「鍵」を読んだ。

「彼女ハ又僕が足ノ fetishist デアルヿ(こと)ヲ知ツテヰナガラ」の、足ノ fetishist などはさすが意味不明だったが、『十五少年漂流記』『ハックルベリイ・フィンの冒険』と同じようにわくわくしながら読んだ。

それを私はずっと十四、五歳の頃のことだと思っていたのだが、最近谷崎の年譜をみてびっくりした。「鍵」の中央公論連載は昭和三十一年の一月号と五月号~十二月号なのである。それを読んだとき、私は十歳か十一歳だったことになる。

それよりもおかしいことがある。大水害は、昭和二十八年七月十八日の正午から深夜にかけてのことである。私の村の大半が流された。私たちは、避難命令が出て、高台のお寺の境内にいた。雨も風もすっかりやんでいた。

「堤防が切れたぞ!」と声がした。私たちの集落は、鉄道線路の土手と寺のある丘の間に細長くのびている。そこへまっ茶色な濁流が押しよせた。牛や山羊、タンスや神棚が流されてゆく。

「あれ、お父ちゃんの本箱や」

弟がそう叫んだ。

とすると、あの紅木の本箱に、谷崎の「鍵」を連載した中央公論がたてかけられていたはずがないのだ。私が昭和十九年五月の母の腹に、ほんとうはいなかったのと同じように。

私は、一度、父を本気で怒らせたことがある。二十四歳のときで、父は包丁を持って二階の私の部屋にかけあがってきて、胸ぐらをつかみ、包丁をつきつけたのである。

私は、殺されてもいいかな、とそのときふと思ったりした。父親には息子を殺す権利がある、とそんなふうにも考えた。

しかし、まあ幸い殺されずにすんだ。その代りといってはなんだが、翌々年、父は死んでしまった。

上海時代の教え子たちに土下座してあやまる父と、息子に怒りを爆発させて、包丁をつきつける父。同じ父だが、私は後者の父を何倍も哀惜する。

彼の憂鬱の大きさ、重さ、その正体を想像してみることもある。

洪水に流され、居心地悪そうに右に左にかたむき、くるっと一回転したり、沈みそうで沈まないで漂っている本箱が、このごろよく浮かぶ。どうやらそれが、私がつかみそこねたものの正体のような気がしてくるからふしぎだ。

鍵 / 谷崎 潤一郎
  • 著者:谷崎 潤一郎
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(240ページ)
  • 発売日:1973-12-10
  • ISBN-10:412200053X
  • ISBN-13:978-4122000537

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【このコラムが収録されている書籍】
新版 熱い読書 冷たい読書  / 辻原 登
新版 熱い読書 冷たい読書
  • 著者:辻原 登
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(452ページ)
  • 発売日:2013-08-09
  • ISBN-10:4480430881
  • ISBN-13:978-4480430885
内容紹介:
古典、小説、ミステリー、句集、学術書……。文字ある限り、何ものにも妨げられず貪欲に読み込み、現出する博覧強記・変幻自在の小宇宙。

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