「永遠女性」のおもかげ
「大谷崎」という。おそらく「大」の字を付けて呼ばれる作家は谷崎潤一郎を措いて他にない。ロシアに大トルストイ、フランスに大デュマがいるが、これは他の同姓の作家と区別する意味合いもある。「大」の付く要件は四つある、と僕は考える。作品群が傑作揃いであること。作品が大量であること。多数の読者を持つこと。そして作家自身が長寿、かつ晩年まで旺盛な創作活動を続けること。どれひとつ欠けても失格だ。
ソクラテスは、一人の人間が幸福だったといわれるためには一定の長さの生涯が必要だ、といっている。つまりその人の生が充全に展開されるのに必要な長さというものがある。谷崎ほど幸福な作家はいなかった。ところでこんな話がある。三島由紀夫十九歳の頃、彼の父が川端康成を訪ね、せがれは谷崎のような作家になれるだろうか、ときいたという。四十五で死んだ三島の生涯は短すぎる。彼も川端も自殺だった。谷崎は一九六五年、八十歳で死んだ。
その谷崎作品の中で、とびきり僕の好きなのが『蓼喰う虫』で、彼が関東大震災をきっかけに関西に移住して間もない頃書かれたもの。
東京・本所生まれの主人公要(かなめ)は、仕事の都合で大阪・豊中に住む。妻の美佐子も東京育ちだが関西居住は長い。二人には十歳ぐらいの男の子がいる。しかし、要は結婚一、二年で妻を性的に捨てていて、いま現実に妻に恋人ができて協議離婚しようとしている。恋人ができたというより、むしろ美佐子は夫の勧めで無理にもみつけさせられたようなものだ。端(はた)からは裕福で睦まじそうにみえるが、別れてゆこうとしている彼らの内面は海草が交錯する海底の世界のように妖しくはかり知れない。
ある日二人は、美佐子の父の誘いで、道頓堀に文楽のお付きあいをさせられる。美佐子がその外出の身じたくをする場面。
立っている彼には襟足の奥の背すじが見えた。肌襦袢の蔭に包まれている豊かな肩のふくらみが見えた。(略)これが他人の妻であったら彼とても美しいと感ずるであろう。今でも彼はこの肉体を嘗(かつ)て夜な夜なそうしたように抱きしめてやりたい親切はある。ただ悲しいのは彼に取ってはそれが殆ど結婚の最初から性欲的に何等の魅力もないことだった。そうして今の水々しさも若々しさも、実は彼女に数年の間後家と同じ生活をさせた必然の結果であることを思うと、哀れと云うよりは不思議な寒気を覚えるのであった。
この寒気の中から立ちのぼってくるのは、その日弁天座でみた「心中天網島」の遊女小春の顔と姿だ。
「つまりこの人形の小春こそ日本人の伝統の中にある『永遠女性』のおもかげではないのか」
要は、この人形の顔へと惹きこまれてゆくうち、それを義父の若いめかけで、京生まれのお久という女の相貌に重ねるようになる。
谷崎がやがて『陰翳礼讃』を書いて決定的な日本回帰を果たす橋懸り的な作品ではあるが、要と美佐子、美佐子と恋人・阿曽、義父とお久、お久と要、という巡る複雑精妙な人間関係と心理が、生きた人間の心の躍動として描かれている。それだけ闇に浮かぶ浄瑠璃人形の頭(かしら)の美しさ、妖しさが際立つという寸法だ。
僕の「大谷崎」ベスト3は、『少将滋幹の母』『細雪』、そして『蓼喰う虫』。
一九二八年、新聞連載時の小出楢重の挿絵は近代挿絵史上の傑作といわれた。岩波文庫に楢重の挿絵入りのものがあったのにいつのまにか品切れのままだ。残念至極!
【岩波文庫版】
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