読書日記

ニコラス・D・クリストフ&シェリル・ウーダン『絶望死』(朝日新聞出版)、田中克彦『ことばは国家を超える 日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(筑摩書房)

  • 2021/06/27

アメリカの悲惨とウラル・アルタイ語族の謎

×月×日

新型コロナ禍の再加速によって大阪では維新主導の福祉予算カットの弊害が露わになり、医療崩壊が迫っている。しかし、新自由主義が四十年近く続いたアメリカの悲惨さはこんなものではない。ニューヨーク・タイムズの記者ニコラス・D・クリストフ&シェリル・ウーダンの『絶望死』(村田綾子訳 朝日新聞出版 二〇〇〇円+税)を読むと、アメリカはコロナ禍がなくても早晩、崩壊するだろうと思えてくる。

一九七〇年代の半ばオレゴン州北西部の町ヤムヒル郊外で定職とマイホームを手に入れたブルーカラーのナップ夫妻は五人の子どもを育てながらアメリカン・ホームドラマに描かれたような中産階級への上昇の夢を育んでいた。子どもたちは毎朝6号バスに乗ってハイ・スクールに通い、いずれ立派な職業について幸せな家庭を築くだろうと思われた。だが、一九八〇年代に入ると「多くの労働者階級の家庭と同じく、ナップ家も想像を絶するような悲劇に見舞われることになる」。長男はアルコールと薬物による肝不全で死に、次男は酔い潰れたあげくに自宅火事で焼死、長女は精神疾患に苦しみ薬物による肝炎で死去、三男は覚醒剤の製造中に爆発で死んだ。四男だけ生き残ったのは十三年収監されて薬物依存でなかったためだった。

このように、本書はスクールバスで著者の一人ニコラスと一緒だったヤムヒルの旧友たちのその後を追跡しながらアメリカン・ドリームの崩壊過程を叙述していく。

スクールバスに乗っていたナップ家のきょうだいや多くの子どもたち――そして、全国の数百万人のアメリカ人――は薬物を使用したり、学校を中退したりといった自己破壊的な大きな選択ミスをした。だが、それをさらに悪化させた理由は、国がさまざまな局面で下した大きな選択ミスの数々にあると私たちは考えている。

一九七〇年代の前半には上昇気運にあったヤムヒルの町は七〇年代後半からは工場閉鎖に見舞われ、失業で住民たちの自尊心も失われる。ニコラスの友人ケビンも失業を繰り返して酒に溺れ、パートナーにも逃げられ、養育費支払いの遅れで運転免許を失い、薬物に手を出す。こうしたサンプルから著者たちは結論する。「労働者階級の人びとにとって仕事は収入源というだけでなく、自尊心とアイデンティティの源であることが多い」。

長期失業は心身の不健康を招き、肥満、薬物、犯罪、収監、離婚、一家離散、自殺の悪しき連鎖をたぐり寄せるのである。

では、偉大なアメリカはいつ道を外れたのか? 分岐点となったのは一九八〇年大統領選挙におけるロナルド・レーガンの勝利である。「小さな政府」を主張し、自助と自己責任を訴えるレーガンは「演説の中で再三にわたって、シカゴに住む生活保護受給者を非難した。『彼女は80の名前、30の住所、12の社会保障カードを持ち、故人となって存在しない4人の夫の退役軍人手当を受け取っているのです』」

このレーガン演説は税金を掠めとる「悪い貧者」に怒っていた「善良な貧者」たちの心を捉えた。彼らはレーガン政権による社会福祉、医療、教育の予算の大削減に喝采を送ったが、そのツケは後に彼ら自身に回ってくる。失業から犯罪に走り、絶望から薬物に手を出したとたん厳罰主義で刑務所送りとなったからだ。

より多くの州や地域が財源を確保するために、ごく軽微な罪にまであれこれと罰金を科して、支払いができない人を拘束している。

大量収監は財政に大きな負担となるから刑務所の民営化は加速し、再犯率はより高くなる。

収監によって犯罪歴がついた貧困者は仕事や住居を見つけたり、自立や安定がますます困難になる。

夫が収監された家族は崩壊し、薬物や犯罪に手を染めなくても、健康保険は任意加入だから、無保険の貧者は病気やケガで悪のサイクルに堕ちていく。こうした崩壊家庭による育児ネグレクトは確実に子どもたちの心と体を蝕み、過食と肥満、怠惰、暴力的傾向、自律心の欠如を生みだし、悲惨(ラ・ミゼール)は次の世代に受け継がれる。まさにユゴーが描いた『レ・ミゼラブル』の世界そのものである。

いっぽう、レーガン政権以降の共和党政権の大減税の恩恵に浴した有産階級はますます富裕化し、自分勝手となり、貧困は自己責任として切り捨てられる。

1965年、最高経営責任者(CEO)の平均報酬は従業員の平均報酬の約20倍だった。現在、CEOの平均報酬は300倍以上になっている。

その結果、ついに現れるべき数字が現れた。平均寿命の短縮と幼児死亡率の上昇である。エマニュエル・トッドはソ連末期に現れたこの二つの統計に注目してソ連の崩壊を予想したが、アメリカにも起こるべきことは起きるのである。

最後に、著者たちはこうしたアメリカ的悲惨への対処法として①質の高い幼児プログラム②高校卒業の徹底③国民皆保険の確立④望まない妊娠をなくす⑤毎月の児童手当の支給⑥子どものホームレスをなくす⑦ベビー・ボンドを資産形成に役立てる⑧働く権利を挙げているが、果たしてアメリカがレ・ミゼラブルの国から脱することは可能なのだろうか?


絶望死 労働者階級の命を奪う「病」 / ニコラス・D・クリストフ
絶望死 労働者階級の命を奪う「病」
  • 著者:ニコラス・D・クリストフ
  • 翻訳:村田 綾子
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:単行本(392ページ)
  • 発売日:2021-03-19
  • ISBN-10:4022517522
  • ISBN-13:978-4022517524
内容紹介:
米国で急増する「絶望死」。労働者階級を死に追いやる正体とは何か? 全米50州各地で、職を失い貧困にあえぎ生きる望みをなくした人々の実態を、ピュリッツァー賞を2度受賞した著者がリポート。格差と分断が深まる米国の窮状に迫る。

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日本語はウラル・アルタイ語族だといわれるが、この学説はだれが言い出したのかはだれも知らない。言語学からノモンハン戦争などにも研究範囲を広げる碩学・田中克彦の最新刊『ことばは国家を超える 日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(ちくま新書 八四〇円+税)はウラル・アルタイ語族説の起源を再検証しつつ、最終的には言語学とは何かを問う試みである。

ウラル語族とはウラル山脈の麓に点在する①ハンガリー語②フィンランド語③サモエド語などを指す。いっぽうアルタイ語族とはアルタイ山脈に沿って帯状に広がる①モンゴル語②テュルク語③ツングース語・満洲語④朝鮮語・日本語などを含む。

これらの言葉の類似に最初に気づいたのは十八世紀初頭にシベリアに抑留されたスウェーデン人タッベルトで、シベリア土着言語の分類を試みた。また言語的孤立に苦しむハンガリー人のジャルマティはウラル語族の、またフィンランド人のカストレーンはアルタイ語族の類似性を発見した。では、日本でのウラル・アルタイ語族研究の嚆矢となったのはだれかというと帝大言語学教授の藤岡勝二である。藤岡はドイツ留学直後の一九〇八年の講演会でウラル・アルタイ語族の構造的類似を十四列挙したが、著者はこれに再注目し、ドイツの青年文法学派的な科学的音韻法則論の立場からこうした構造的説明を全面的に否定した言語学者・服部四郎も、また藤岡説に依拠した国語学者・大野晋もともに言い落としている十番目の特徴、すなわち印欧語では主語が何々を持つというところがウラル・アルタイ語族では「……に~がある」という表現形式になることに着目する。なぜなら表現形式の類似は「心情――つまりものの感じ方を共有するのであり、それは心の共有、感性共同体へとつながる」と考えるからだ。

ここから話は戦前に一世を風靡しながら敗戦によって忘れ去られた「ツラン(トゥラン)主義」へと飛んで、最後に偉大なる言語学者トルベツコーイの祖語否定と言語相互接触理論が紹介されて終わる。著者が出会った言語学者たちの思い出にウラル・アルタイ語族説をからめた言語学エッセイだが、青年文法学派的な科学主義に偏重しすぎた言語学への反省からウラル・アルタイ語族研究の再評価へと向かった軌跡はよく理解できる。DNA解析の進化でDNAと言語の関係が注目されている今日、言語学の泰斗が忘れられつつあったウラル・アルタイ語族学説に再び光を当てようとする姿勢を高く評価したい。

ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義 / 田中 克彦
ことばは国家を超える ――日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義
  • 著者:田中 克彦
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:新書(251ページ)
  • 発売日:2021-04-08
  • ISBN-10:4480073884
  • ISBN-13:978-4480073884
内容紹介:
日本人の言語観を一変させるウラル・アルタイ言語学入門。国境も言葉も越えて心でつながりあえる人がびとが世界にはたくさんいる!

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