対談・鼎談

人類の長い旅―ビッグ・バンからあなたまで|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2024/02/18
人類の長い旅―ビッグ・バンからあなたまで / キム・マーシャル
人類の長い旅―ビッグ・バンからあなたまで
  • 著者:キム・マーシャル
  • 翻訳:藤田 千枝
  • 出版社:さ・え・ら書房
  • 装丁:単行本(151ページ)
  • 発売日:1983-12-01
  • ISBN-10:4378038528
  • ISBN-13:978-4378038520
内容紹介:
この本は、「自分がどこからきたのだろう」という疑問に、まだ、はっきりした答えをもっていない人たちのための本です。
ビッグ・バンから、いま、ここにいるあなたまでの歴史が、あざやかに理解できます。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。


丸谷
わたしは理科系のことが苦手で、何も知らないんです。それで非常に困ることが多いんですが、気象学の根本順吉さんから、それにはアメリカの子供向きの自然科学の本の翻訳を読むのが一番いいと教えられました。叙述に工夫がしてあって整然と書いてあるからよく分るというんですね。その典型みたいな人類史、というよりも生命史で、宇宙のはじまりから、現在この瞬間までの全歴史が、短く、頭に入りやすく、きちんとまとめてあります。
約百五十億年前、途方もない巨大な爆発があって、何もない黒い空間に、ものすごい量のエネルギーが噴き出た。これが宇宙のはじまりについての現代科学の通説ですが、このビッグ・バンという大爆発以前はどうだったのか、ビッグ・バンはなぜ起ったのか、なんてことは一切分らない。生命の歴史は、それ以前に遡(さかのぼ)ることが不可能なんです。

ビッグ・バンから飛び出したエネルギーの一部が、冷たい空間の中で物質に変り、無数の細かい粒子になりました。そしてたくさんの星が生まれ、様々の形の銀河ができたんですが、そのうち天の川と呼ばれる銀河系の縁(ふち)に近いところで、いまから五十億年前に燃えはじめた星の一つが太陽です。その太陽から三番目の、熱過ぎも冷た過ぎもしない惑星が地球なんですね。
四十億年昔、地球上にあった化合物には生命はありませんでした。ところがアンモニア、メタン、水素、水に電気火花、その他のエネルギー源を与えられて、アミノ酸と核酸塩基(これが生命をつくる大事な材料のすべてなんですけれども)が生じたらしいんです。こうして生命のもとになる分子が、何百万年もかかって大気の中に出来、それが大洋の中にとけ込んだ。

こうして前細胞ができます。やがて三十五億年前には、大きくなったり、もとのものとまったく同じ二つのものに分裂したりする前細胞ができて、それぞれの細胞は親から「たべよ、成長せよ、分裂せよ、この指令を次の世代に伝えよ」という四つの指令を受け取る。この指令の担い手がDNAです。このDNAと突然変異というのが非常に大事なんです。たいていの突然変異体は弱くてすぐ死ぬんですが、百万回に一回位しか起らない、よい突然変異は子孫に伝えられます。こうして水中には、さまざまな形、大きさ、色の細胞が漂うことになりました。

約十億年昔、有性生殖が始まります。これは二つの親細胞が合さって、両方のDNAを組合せた、新しいDNAを作る。このDNAは、どちらの親とも違う指令を持っていますから、生きものの種類はグンとふえました。これで動物がはじまるわけです。
今から約千四百万年前、ラマピテクス(霊長類のはじめ)が住んでいたことは確からしいですし、それからホミニド、やがてホモ・サピエンスということになります。そしてこの段階になって重大な変化が生じました。これまでの生きものは、すべてDNAの中に暗号で記してあった指令に従って生き残ってきたんですが、ホモ・サピエンスは、勿論DNAのせいもあるけれど、もう一つ、言葉を使って口伝えに知恵を受け継ぐことができるようになった。五万年前、ホモ・サピエンスから、ホモ・サピエンス・サピエンスが生じました。これがわれわれ人類です。

ここから著者のマーシャルは、牧畜、農業、天文学、宗教、法律、産業、技術など、人間の文化について述べますが、これはみんな知っていることですから、まあ、いいでしょう。
終りのところで著者は、いま「あなた」が読んでいるこの本は、人類が何千年もかかって作った文字、製紙機、印刷機などの技術のせいで存在している。それと同じように、あなたの存在自体も過去へずっと遡るんだと言って、父親の精子細胞と母親の卵細胞へと思いを馳(は)せさせる。そしてさらにその両親へと、家系図を遡り、それから何億年昔のホモ・サピエンスへと辿(たど)りつく。そして、〈もっとむかしのホミニド、そのむかしの霊長類、哺乳類、爬虫類、両生類、魚類、ヒモムシ、最初の真核細胞、そしてさいごは、海のなかで自分の複製をはじめてつくった細胞まで、たどりつかねばなりません。はじめての生細胞からあなたまでの生命の流れは、とぎれることなくつづいています。(略)それをさらにさかのぼれば、最初の生細胞をつくったアミノ酸と核酸塩基、さらに原始の大気の中でくっつきあった分子、さらには、よりあつまって地球をつくった原子、そのまえにはこの原子のもとになった超新星、そのまえには、初期の星をつくった水素原子とヘリウム原子、そして空間の微粒子、そして最後には、すべてのみちすじのはじめになったビッグ・バンにいきつきます。わたしたちのからだをつくっているすべての材料は、百五十億年むかし、わたしたちの宇宙がはじまったまさにその時にうまれたものなのです〉。

この宇宙論的な人間認識、時間の把握を子供に感じさせる語り口が凄いですね。構えが大きくて堂々としています。あるいは宇宙史の構えの大きさにたじろがないで、しっかりとわたりあっているといってもいい。
とにかく私には、この百五十億年の歴史がかなりすっきりと頭に入ったような気がしました。専門的なことは分りませんけれども、翻訳もなかなか質がいいと思います。

山崎 この本の基本的なよさは二つあると思います。それはいずれも序文の中にあらわれています。
まず第一に、この著者は、子供に科学を語るのに、方法論から始めています。科学的な知恵が成立したのには三つの条件があった。顕微鏡や望遠鏡の発明によって肉眼以上のものが見えるようになったこと。世界の違う土地の人々と情報が交換できるようになったこと。以前の人々の研究を基に、その堆積の上に知恵が積み上げられるようになったこと。これらの条件がそろって、科学が進歩しはじめたのだという。

第二によいことは、それの裏返しとして、科学の限界についても、謙虚に子供に白状しています。第一にこの本の中でも満足に説明を組み立てられない空白の部分がところどころある。第二に、いまだに理論的な対立を免れない、いくつかの問題がある。第三に、すべての科学的知識はいつか必ず陳腐化していく。この三つを認めている。
従来の科学的啓蒙書というのは、科学を一つのお伽噺の世界のように語っていたわけですね。ところがこの本では、科学も一つの方法に基いて出来た永遠の仮説であり、したがって方法が含んでいる必然的欠陥を免れえないものだと語っている。それは大変立派なことだと思います。

さて、そういうよさを踏まえても、なお望蜀(ぼうしょく)の感は残るのでありまして、この本は極めて西洋的常識、もっというならばアメリカ的イデオロギーに骨の髄まで侵されています。
最初にビッグ・バンがでてきます。おそらく、それ以前にも何かあったはずなのにいきなりビッグ・バンがあり、これがすべてのはじまりである、と書いてある、これは聖書の「はじめにロゴスありき」というのと同じ書き方ですね。
また、この人の進化論は基本的にダーウィニズムですが、ダーウィニズムに対する重要な反論を正直に伝える努力がありません。たとえば獲得形質がいかにして遺伝するか、あるいはなぜしないかはなかなか分らない問題です。私がいくら陽焼けしても、私の子どもが白いまま生まれてくるのはなぜか。人間の処女膜は永遠に破られつづけているにもかかわらず、処女膜なしで生まれてくる女性が一人もいないのはなぜか。

木村 今のは、過激な発言だったなあ。(笑)

山崎 いや、これは獲得形質が遺伝しない一番いい例です。

丸谷 なるほど、そういえばそうだ。考えたこともなかったけれど、つまり、関心がないんだなあ、僕は、あの問題には。(笑)

山崎 末梢的なことに感心しないで下さい。いまは自然科学の方法論について述べているんですから。(笑)
そして、著者は自然界における競争原理を百パーセント信じています。最初に水中で生きていた動物は、栄養をたくさん採っていた。ところが「うまいことは長続きしないものです」といって、そこに競争者が現れる情景を描きます。競争から脱落したものは逃走し、新しい環境の中で新しい形質を獲得し適応していくのだという。これは、ヨーロッパから脱出した人間がアメリカで成功していったという史実の反映ですね。

その他、歴史時代に入ってきますと、無数の先入観に毒されています。初期の人類は常に愉しい生活をしていただろうといいますが、これはルソー以来の感傷的な古代論の繰返しです。あるいは芸術の起源を描く部分では、原始人は「私がここにいたのだ」という証拠をあとに残したのだと書いてありますが、これは十八世紀以後の独我論的芸術論の典型ですね。さらに中世は暗黒時代だという、今日の歴史学では問題にならないような歴史観が平然と述べられている。
ま、数々の不満はありますが、しかしそういう点も含めて、いかにもアメリカ的な理性の産物という気がいたします。

木村 私の周辺にも、歴史研究者で「天地創造」から始めないと気の済まない人がいますが、「天地創造」から説き起せば、現代とかいまの人間がわかるかというと、そこが一番の問題だと思うのです。
この本はビッグ・バン――バーンと宇宙が爆発したからビッグ・バン! というらしいんですけれども、(笑)――から説きおこしてあって、今日までの人類の歩みをよく整理して書いてはあるのですが、肝腎のところがわからないのです。たとえばいままで大きくなっては破裂してこわれていた前細胞が、〈たぶん千個に一個くらい、どういうわけか、小さな前細胞に分裂し、生きのこり、だんだん数が増えていきました〉と書いてある。また〈たいていの細胞は、親の細胞の正確な複製ですが、ほんのときたま、DNAがまちがいをすることがあり〉突然変異になると述べています。“まったく偶然”にそうなるので、その決定的なところが、「どうしてか」は分らない。そうしますと、人類の起源とか歴史が分ったように見えて、実は何も分っていない、ともいえるのではないか。

われわれには親がある、親には親がある。それはいいんです。ではこの私は、父親と母親の単なる合成物かというと、そうではなくプラス何かがあって、新しく歴史をつくっていく。そのプラス・アルファをこの本は語っていません。過去から今日までの生命体の発生・進展を簡潔に辿って歴史的に書いてあるように見えますが、驚いたことに歴史感覚はゼロです。
いまアメリカ的だというお話がありましたが、たしかにそうですね。ヨーロッパではまだ地縁.血縁社会が生きていて、フランスの警察で滞在証明書を取るときは、お祖父さん、お祖母さんの生年月日まで書かされます。私などは知りませんからでたらめを書きますけれど。(笑 )そういう血と土のしっかりとした繋がりの中で生きている人たちには、自分がどこから来たかは、大して問題になりません。ところがアメリカのように離婚も多く、孤独な生き方をしている人びとが多いところでは、自分のアイデンティティを「天地創造」にまで遡って、やっと安心立命を得る、というところがあるのかもしれません。

それに、この本は自然科学書に徹してもらいたかったと思います。途中から急に農業だの牧畜だのと、なまなましい人間社会の話がでてきて、太古からルネサンスに話が飛ぶというのは、どう見ても無茶です。いまヨーロッパ史のほうでは常識となった、中世農業革命の意味を無視しているのですから。それにせっかくDNAのことが書いてあるのに、いまのバイオテクノロジーについては言及していません。そして最後に、「人口過剰、公害、核兵器、貧乏」を現代の問題として掲げているんですが、これらについて〈外宇宙からやってくる生きものから、うまい解決法を教えてもらおうと待っているのは、よい考えではありません。……わたしたちは、この難問を、自分たちの手で解決しなければならないのです〉と書いてある。でもどう解決したらいいというのか、この本全部を読んでも分らず、私は茫然といたしました。

山崎 木村さんのご批判は重々わかるんですが、あえて筆者を弁護しますと、アメリカにおける科学啓蒙書のあり方と日本のそれとの違いですね。戦争中の万世一系、神国日本の時代ですら、当時の雑誌「子供の科学」には、平気で「人類の先祖はサルである」と書いてあった。われわれと黒人は、同じ先祖から分れた同じ人間であると書いてあった。
ところが、アメリカは科学の最先端国のように見えますが、実体はそうではない。いまだに進化論は教えていけないときめている郡があったり、黒人は自分たちとは違う人間だと根強く思っている人がごく普通にいる。
私は日本人が高級だと言っているんではないんです。日本人は黒人と暮したことがないんですから、そんなに深刻に考えないのは当り前です。人類平等というのは、日本人にとって抽象的知識にすぎない。アメリカ人にとっての黒人差別は血肉に触れる問題。いくらでも非難できますが、問題の次元が違う。

そういう困難な社会の中で、筆者はこの本を書いている。その点を考えると、いまおっしゃったいくつかの点は許してやれると思うんです。

丸谷 筆者は祖述者なんですからねえ。現代の自然科学はここまで分っているということをともかく繋ぎあわせて、何とか早く年少の読者に提供したいというのが、この著者の目的であり善意であるわけです。その先を書いてないといって咎めるのは、木村さん、まるで今日の自然科学全体をあなた非難なすっている。

木村 いや、そうではありません。

山崎 ちょっと待って。こんどは丸谷さんに反論します。せっかく序文で科学の限界について語っているのに、実際の叙述になると、まったく木に竹を継いだように、あとはいかにもすべてが分っているかのように書いてある。それがよろしくないといってるわけです。

丸谷 それはそのとおり。しかし、いちいち丁寧に但し書きをつけながら書いてゆけば話がややこしくなって、今度は読者が困ってしまうと思いますよ。

木村 われわれの自然科学がいま、どういう困難な立場にあるかということも、もっと積極的に書いてもらいたかったと思いますね。

丸谷 まさしくそのとおり。しかしそこまでの筆力はなかった、この筆者は。

山崎・木村 アハハハ。

丸谷 しかし、ここまでの筆力はあった。(笑)それは、在来の啓蒙自然科学書に比べれば、すごいものだと思う。まして日本人の書いた自然科学書のあの話術の拙劣、支離滅裂な構成、そういうものに比べれば格段の違いです。人間の歴史の部分はたしかに欠点はあるけれど、でもそこがないと、この本の面白さ、この本の迫力はないんです。そういう美点を、やはり多少認めていただきたいと思いますねえ。(笑)

山崎 いやいや大いに認めて、なおかつ注文をつけているんです。特に私が声を大きくして――丸谷さんの声の大きさを真似ていうならば……。

丸谷 アッハッハ。

山崎 自然の発生と歴史文化の発生をパラレルに書くのは、デマゴーグのやることです。つまり、自然の記述についてはわれわれはとかく信じやすいんですね。それを信じた勢いで、うっかりすると歴史記述のほうまで信じてしまうんです。特に西洋中心の歴史を自然史の繋がりの中で述べている。これはアンフェアですね。

木村 この本のいい点を少し言いますと、〈アジアのあつい地方に住む人(東洋人)はうすい黄色みをおびた皮膚に進化しました〉とあって、黄色人種とは書いていません。これは大変結構なことです。黄色人種というのは為(ため)にする言い方で、赤信号の前の黄と同じく、「注意しなさい」という意味ですから。

丸谷 あ、なるほど。

木村 昔はユダヤ人につけられたマークの色が黄色ですね。近世では売国奴の家の入口とか窓は黄色に塗られた。スト破りをする労働者をイエロー・ドッグ、信用できない新聞をイエロー・ペーパーというわけですね。その意味では良心的な本です。

山崎 これを読んでいると、最初のオズボーン氏の本と二重がさねになるんですね。つまり、アメリカ人はどの時代においても、いろいろ困惑しながら、どうしても懐疑主義を受けつけない体質を一方で持っていますね。悩み蹉(つまず)き、自分の非を認めながら、なお「これだけのことは確実に言える」と主張したがる。

オズボーン氏がさんざん傷つきながら、なおアメリカン・ジャーナリズムの健康を明朗に信じていた。この著者も傷つきながら、やはりアメリカ的世界像を信じたいんですよ。

木村 この本の一番いいのは、最後の結びの文章ですね。
〈宇宙の歴史を100mの長さにおきかえてみましょう。1mが1億5千万年です。100m:ビッグ・バン 30m:地球ができる。23m:最初の生細胞 3m:最初の魚 45㎝:恐竜の絶滅 0.3㎜:ホモ・サピエンス・サピエンス 0m:いま〉

丸谷 ああいう感覚なんですよ。僕がこの本を推奨するのは。

山崎 しかし、これが分っていながら、ある種の無常観というのがどうもよく分らないのが、またアメリカなんですね。

人類の長い旅―ビッグ・バンからあなたまで / キム・マーシャル
人類の長い旅―ビッグ・バンからあなたまで
  • 著者:キム・マーシャル
  • 翻訳:藤田 千枝
  • 出版社:さ・え・ら書房
  • 装丁:単行本(151ページ)
  • 発売日:1983-12-01
  • ISBN-10:4378038528
  • ISBN-13:978-4378038520
内容紹介:
この本は、「自分がどこからきたのだろう」という疑問に、まだ、はっきりした答えをもっていない人たちのための本です。
ビッグ・バンから、いま、ここにいるあなたまでの歴史が、あざやかに理解できます。

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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文藝春秋

文藝春秋 1984年6月1日

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