書評

黒川 創、瀧口 夕美 編『加藤典洋とは何者だったか?』(編集グループSURE)

  • 2025/12/08

戦後日本の病理…治癒へ残された宿題

傑出した文芸評論家・加藤典洋氏が亡くなり六年あまり。歯が抜けたような欠落が埋まらない。

主な著書だけで五○冊。『思想の科学』編集仲間の黒川創氏ら、加藤氏と縁ある五人が全冊を読み抜いた。討論は一○年ごとの四部構成だ。一部はデビュー作『アメリカの影』。二部は論争の書『敗戦後論』。三部は『太宰と井伏』他。四部は『3・11 死に神に突き飛ばされる』などの書を読む。

一部。加藤氏は国立国会図書館に勤め、派遣先のカナダで鶴見俊輔氏と邂逅(かいこう)。そして批評の道に進む。『アメリカの影』は江藤淳の『成熟と喪失』を横目に、高度成長の空虚な内実を描き出した。

二部。『敗戦後論』は「アジアの死者を追悼するより先に自国の死者を追悼すべき」とのべ、左派リベラル側からの非難を浴びた。敗戦のねじれに目を背けていたのが図星だったからだ。『言語表現法講義』もこの時期である。

三部。『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』は思想の話。思想には一階と二階がある。サルトルやポストモダンのように一階がないのを「ポッカリあいた心の穴」と譬(たと)える。『井伏と太宰』は、太宰を死に追いやった後ろめたさの正体を敗戦後の精神状況と重ねて論じる。他に『日米交換船』『小説の未来』など。

四部。『村上春樹の短編を英語で読む』『村上春樹は、むずかしい』は切れ味抜群の批評だ。『3・11 死に神に突き飛ばされる』は、東日本大震災の衝撃以降の思索の数々。『戦後入門』『9条入門』『9条の戦後史』は、戦後の歪(ゆが)みとねじれの全貌を全身全霊で追究する。『僕の一○○○と一つの夜』は、病床で紡いだ透明な詩集。『オレの東大物語』は同じく病床で綴(つづ)った貴重な告白録だ。

本書は、通夜の席で親族や友人の故人語りを聞くかのようだ。あの人にそんな一面があったのか。自分の知る加藤氏が等身大の立体像に肉付けされ、心が動く。

討論する五人の世代はまちまちだ。黒川氏は加藤氏の一三歳下。瀧口氏はさらに一○歳若く加藤ゼミの元学生。川副博嗣氏は一九九九年生まれで、加藤典洋をテーマに卒論を書いた。北澤快太氏は二○○○年生まれの編集者。鶴見太郎氏は俊輔氏の子息で歴史学者、一九六五年生まれである。

評者の橋爪は加藤氏より一学年下。氏はキャンパスの有名人で、小説家になると皆思っていた。本郷で熱心な全共闘だったのは知らなかった。そんな氏が生涯の課題としたのは、戦後日本の病理をつきとめ治癒させること。文学はその診断の装置だった。湾岸戦争に反対する文学者の宣言に憤り、9条問題に向き合えぬ議論に憤る。文学をほぼ超える未踏の領域に、生命の炎を燃やした。氏の父は警察官で、治安維持法違反の容疑でキリスト者を検挙した。氏はそれが許せなくて、戦前/戦後の不整合にとりわけ敏感だったのだ。

昭和はもちろん、平成も昔語りになった。それでも氏が追いかけた問題は未解決のまま、押し入れで眠っている。加藤氏の著作はどれも半分解けかかった知恵の輪のようである。新しい世代の読者がそれを解くならば、敗戦後という閉塞(へいそく)の時代にようやくピリオドを打てるだろう。こんなにも手ごたえのある宿題を残してくれた加藤氏と、本書を企画し実践した五人の討論者に心から感謝したい。



【編集グループSURE】:https://henshuugroup-sure.stores.jp/
  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2025年11月29日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

関連記事
ページトップへ