書評

『星の王子の影とかたちと』(筑摩書房)

  • 2017/11/02
星の王子の影とかたちと / 内藤 初穂
星の王子の影とかたちと
  • 著者:内藤 初穂
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(430ページ)
  • 発売日:2006-03-00
  • ISBN-10:448081826X
  • ISBN-13:978-4480818263
内容紹介:
『星の王子さま』の名訳で知られる仏文学者・内藤濯の生涯の記録を、長男が渾身の力で描ききる力作ノンフィクション。美しい日本語を探究し続けた、純粋でまっすぐな九十四年の生涯が浮かび上がり、内藤濯その人がまさに「星の王子さま」のような存在だったことが素直に伝わってくる。

息子が語る名訳者の「子ども心」

サン=テグ=ジュペリ『星の王子さま』の名訳者として知られる内藤濯(あろう)はわれわれ仏文世代にはむしろ「先生の先生」として有名である。先生たちの会話に、旧制一高でフランス語を習った「あろうさん」として登場したのであるが、その「あろうさん」という言い方には一種独特の親しみが籠もっていて、鈴木信太郎氏が会話に出るときの「直立不動」的な感じとはだいぶ違うものだった。その意味で、本書は『星の王子さま』の名訳誕生秘話であると同時に、フランス文学者たちの創成期物語としても興味深い。

内藤濯は明治十六年に熊本城下に生まれた。父の泰吉は横井小楠の門下生で、軍医として戊辰戦争に従軍後、開業医となった。濯とは「滄浪(そうろう)の水清(す)まば、以て我が纓(えい)を濯(あら)うべし、滄浪の水濁らば、以て我が足を濯うべし」という孟子の一句から来ている。

中学は柳川の伝習館。同期に北原白秋がいた。東京の開成中学に転校し、英語教師の訳読で翻訳開眼する。It was very cold this morning for exampleを生徒が「たとえばけさは」と訳したのを先生が「けさなんか」と訳したことから「意訳」の思想を学んだのだ。『新声』や校内雑誌に和歌、新体詩を投稿し、言語感覚を磨く。

一高ではフランス語を第一外国語に選ぶ。先生は幕末の通弁メルメ・カションの弟子今村有隣というから相当に時代がかっている。翻訳はむしろ上田敏『海潮音』や鴎外『即興詩人』に学んだが、この時代で注目すべきは「日本ユニテリアン協会」の活動に加わり、賛美歌の編纂に携わったこと。ここからはシューベルトの「子守歌」の名訳「ねむれ、ねむれ、母の胸に」が生まれる。音楽性重視の翻訳の基礎が築かれたのである。

東大は明治二十二年の開設以来定員割れが続いていた仏蘭西文学科に進学。濯が入学した明治四十年まで総計で十一名だったというから不人気ぶりが忍ばれる。数少ない同級生の一人がフランス語普及のために白水社を起こした福岡易之助である。

卒業後、陸軍幼年学校のフランス語教官となり、作家希望の後輩豊島與志雄を同僚として雇ったり、将校をやめて上京した岸田国士(くにお)を暁星中学フランス語夜間講習会の講師に斡旋したりした。一高に転じ、文部省在外研究員としてパリ留学。後輩の辰野隆や山田珠樹夫妻(妻は森茉莉)と同じホテルに滞在、劇場や音楽会に日参してフランス語の音感を磨く。東京商科大学のゼミで一対一の教えを受けた伊藤整は「商科大学は私を教育するために内藤先生を呼んだやうなものだった」と回想している。

『星の王子さま』の翻訳は山内義雄から回ってきた。山内は「この美しいリズムを訳文に活かせるのは、内藤先生のほかにありません」と推薦したのである。本書の著者である息子の父親評が内藤濯の資質を要約している。「私の知るかぎりの父は明らかに『おとなの悪さ』を持つ人ではなかったし、持てる人でもなかった。(中略)そういう父だから、ページを繰るにつれて高まる王子への共感は、おとなが積み重ねた人間悪を深刻に自覚、反省した結果でもあったとは思えない。むしろ、王子の動作や言葉のなかに自分に通じるものを感じとり、自分の本質が子ども心――童心であることに気づいたのであろう」

「明治末期人」にのみ許された和漢洋の音楽的な言語感覚が、内藤濯という繊細な詩人の中で熟成されて生まれたもの、それが『星の王子さま』にほかならない。
星の王子の影とかたちと / 内藤 初穂
星の王子の影とかたちと
  • 著者:内藤 初穂
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(430ページ)
  • 発売日:2006-03-00
  • ISBN-10:448081826X
  • ISBN-13:978-4480818263
内容紹介:
『星の王子さま』の名訳で知られる仏文学者・内藤濯の生涯の記録を、長男が渾身の力で描ききる力作ノンフィクション。美しい日本語を探究し続けた、純粋でまっすぐな九十四年の生涯が浮かび上がり、内藤濯その人がまさに「星の王子さま」のような存在だったことが素直に伝わってくる。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2006年3月26日

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