連載に当たって編集部と交わした約束は、「古書以外の収集品」に関するエッセイということだった。そんなものはそうたくさんはないから、せいぜい続いて1年だろうと思っていたが、結局、5年59回にわたって続いたのだから驚きである。
つまり、それだけ、私がいろいろなものを集めているということなのだが、こうして振り返ってみると、美術館級の逸品からほとんどゴミといえるガラクタまで、じつにさまざまなジャンルのものに手を出している。我ながら呆れ返るほかない。いったい、このような収集の情熱というのはどこから湧いてくるのだろうか?
思うにそれは、「すでに存在しているもの」を集めることで、「まだ存在していないもの」を発見するという快楽を味わいたいがためである。
「すでに存在しているもの」ということだったら、だれにでもわかる。しかし、「まだ存在していないもの」とはいったいなんなのか?
それは、集めてみてはじめて見えてくるモノとモノとの関係性である。
モノが一つだけだと、この関係性はまったく顔をのぞかせない。2つ、3つと集まってもあまり変わりない。しかし、5つ、6つとなってくると、にわかに関係性が浮上し出す。そして、アイテムが10を越えたあたりから、関係性がはっきりと見えてくる。
そうなると、今度は、その関係性が逆に集めるべきアイテムを指定してくることになる。つまり関係性を完璧なものにするために欠けているアイテムを早く補えと、関係性それ自体が要求してくるのである。
こうなってくると、収集しているのは私であって私でない。関係性が私という存在を介して自らを完成しようとつとめているかに思えてくる。
だが、この関係性のジグソー・パズルにおいてラスト・ピースが集まってしまうと、そのとたん、関係性はこちらの興味をひかなくなる。
コレクションが完結したときのコレクターほど寂しいものはない。なぜなら、コレクションの完結とはコレクターにとって生きる意味の喪失に等しいからである。
かくて、コレクションの完結という「死」を乗り越えようとして、つまりあらたな生き甲斐を求めて、コレクターは別のコレクションを開始する。そのときほどコレクターが生き生きしていることはない。前途に達成すべき大目標がはっきりと見えてくるからである。
ことほどさように、コレクターには終わりというものがない。
パスカルはこんなことを述べている。
わたしたちはけっしてモノを探すのではない。モノの探求を求めるのである。(『パンセ抄』拙訳 飛鳥新社)
コレクターはアイテムを求めているのではない。アイテムの探索という行為を求めているのである。
とはいえ、本書で披露したアイテムの数々は、古書とは異なり、コンプリート・コレクションを構成するようなものはほとんどない。古書の収集という「本業」のかたわら、いわば「道楽」として、アングルのバイオリンとして集められたものばかりである。
したがって、その道の専門的コレクターからすると、「なんだこんなもの、たいしたアイテムではないじゃないか」という声が出るかもしれないが、その点はどうか御容赦いただきたい。あくまで道楽としての、余技としての、アマチュアとしてのコレクションだからである。
連載時には生活の友社編集部の大澤景さんにお世話いただいた。記して感謝の気持ちを伝えたい。
連載したまま放置状態になっていた原稿を1冊にまとめるよう励ましてくださり、書籍化に尽力いただいた生活の友社編集部長・小森佳代子さん、そして帯にすばらしい跋文をお寄せくださった野見山暁治さんに心よりの感謝を申し述べたい。
2017年9月11日 鹿島 茂