書評
『国境の南、太陽の西』(講談社)
島本さん、という魅力的で不可思議な女性が絡んでこなかったら、主人公「僕」の人生は、どこにでもありそうで、まあその中ではかなりよくできたほう、といったものだ。
ほどほどの屈折と、ほどほどの挫折と、ほどほどの幸福と。僕の人生は、現代の日本における一典型とも言える。そんな中で島本さんの影は、常に彼の「今」に降り立ち、「その奥」あるいは「その先」にある何かを考えさせる。
二人の出会いは十二歳のとき。互いに一人っ子であることから、心が通いあうようになった。違う中学に進学し、会うことはなくなってしまったが、のちのち僕は、何かにつけ島本さんを思い出す。ガールフレンドといるときも、その従姉とのセックスに溺れるときも、つまらない会社にいるときも。
三十歳で結婚した僕は、義父の所有するビルでジャズ・バーを始め、成功した。そのバーで、二人は再会する。
僕は終始一貫して彼女のことを「島本さん」と呼ぶ。まるで時を越えて、十二歳のときのままの彼女に、呼びかけているようだ。かつて二人の過ごした濃密な時間は、人生で一番満たされたい部分を、早くも満たしてしまっていたのかもしれない。だからその後の僕は、ぽっかりとした穴を抱えこんでいる。
島本さんと再会することによって、今の生活に、あるものとないものとを認識する僕。
つまり彼女とは、そういう存在なのだ。島本さんがいなければ僕は、人生なんてこんなもん、と思っていたことだろう。さらに、彼女との再会は、何の過不足もない家庭生活に危機をもたらす。それでも僕は、島本さんを求めつづける。
島本さんとの恋愛は、ほどほどの人生を、許さない。彼女自身の言葉にあるように、中間というものは、ない(彼女との会話や小さな旅は、どきどきするほど素敵だ)。僕にとっては、島本さんがすべてとなる人生も見えてくる。
が、いっぽうで彼は、妻や娘への思いも確認することになる。客観的にはほどほどでも、本人にとってはかけがえのないものが、そこには育ちはじめていたのだ。
最後に、僕の机のなかにあったはずの白い封筒がなくなる、という短いエピソードがある。もしかしたら島本さんも、いたはずなのにいない人、なのかもしれない。そう思いたくなるほど、島本さんは謎だらけで、二人の恋愛は、心のぎざぎざが嚙み合っている。まるで僕を裏返したのが、島本さんであるかのように。
【この書評が収録されている書籍】
ほどほどの屈折と、ほどほどの挫折と、ほどほどの幸福と。僕の人生は、現代の日本における一典型とも言える。そんな中で島本さんの影は、常に彼の「今」に降り立ち、「その奥」あるいは「その先」にある何かを考えさせる。
二人の出会いは十二歳のとき。互いに一人っ子であることから、心が通いあうようになった。違う中学に進学し、会うことはなくなってしまったが、のちのち僕は、何かにつけ島本さんを思い出す。ガールフレンドといるときも、その従姉とのセックスに溺れるときも、つまらない会社にいるときも。
三十歳で結婚した僕は、義父の所有するビルでジャズ・バーを始め、成功した。そのバーで、二人は再会する。
僕は終始一貫して彼女のことを「島本さん」と呼ぶ。まるで時を越えて、十二歳のときのままの彼女に、呼びかけているようだ。かつて二人の過ごした濃密な時間は、人生で一番満たされたい部分を、早くも満たしてしまっていたのかもしれない。だからその後の僕は、ぽっかりとした穴を抱えこんでいる。
島本さんと再会することによって、今の生活に、あるものとないものとを認識する僕。
つまり彼女とは、そういう存在なのだ。島本さんがいなければ僕は、人生なんてこんなもん、と思っていたことだろう。さらに、彼女との再会は、何の過不足もない家庭生活に危機をもたらす。それでも僕は、島本さんを求めつづける。
島本さんとの恋愛は、ほどほどの人生を、許さない。彼女自身の言葉にあるように、中間というものは、ない(彼女との会話や小さな旅は、どきどきするほど素敵だ)。僕にとっては、島本さんがすべてとなる人生も見えてくる。
が、いっぽうで彼は、妻や娘への思いも確認することになる。客観的にはほどほどでも、本人にとってはかけがえのないものが、そこには育ちはじめていたのだ。
最後に、僕の机のなかにあったはずの白い封筒がなくなる、という短いエピソードがある。もしかしたら島本さんも、いたはずなのにいない人、なのかもしれない。そう思いたくなるほど、島本さんは謎だらけで、二人の恋愛は、心のぎざぎざが嚙み合っている。まるで僕を裏返したのが、島本さんであるかのように。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞
朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。
ALL REVIEWSをフォローする


































