無垢な視点が炙(あぶ)り出す物語の奥の残酷さ
今村夏子の小説は怖い。どうしようもない痛みを掌(てのひら)にそっと置かれて、言葉もなく立ちすくむ。そんな静かな怖さ。前二作『こちらあみ子』『あひる』、いずれにも同様の感覚をおぼえたが、このたびの芥川賞候補作『星の子』にもぞくりとさせられる。物語の核心に潜む、残酷さや怖ろしさ。それらを守り通そうとするかのように、全編にきわめて純度の高い無垢が張り巡らされている。残酷さと無垢。物語が抱える落差にはしごを外されて戸惑うのだが、虚ろにぶらつく足の下を覗いてみたくなる。
生まれつき体の弱かったちひろ。専業主婦の母。損害保険会社に勤める父。五歳年上の姉、まさみ。どこにでもいる平凡な家族のはずだった。ところが、ちひろが中学三年になったいま、一家のようすは、世間の“常識”から大きくズレている。両親は「あやしい宗教」にのめりこむ毎日で、それを嫌ってきた姉は、高校一年のとき、とうとう家を飛び出してしまう。いびつな暮らしぶりを語るちひろの眼は、しかし、あくまでも心優しく質朴だ。
そもそも両親が宗教に染まるきっかけは、ちひろ自身なのだった。娘の虚弱体質を改善してやりたい一心ですがったのは、父の会社の同僚に勧められた水「金星のめぐみ」。その水を飲んだり体を清めたりするうち、ちひろの身に“奇跡”が起こり、「金星のめぐみ」は一家の救世主となる。もちろん、洗脳を解こうと試みる身内もいた。母の弟の雄三おじさんは、ペットボトルに入った水の中身を公園の水道水と入れ替えて目を覚まさせようとするが、両親はまったく聞き入れず、逆効果にしかならない。一家はしだいに孤立を深めてゆく。
訥々(とつとつ)と語るちひろの視線には曇りがなく、あくまでも心優しい。とはいえ、意思がないわけでもない。高校進学をきっかけに預かりたいという親戚の申し出をみずから辞退するし、学校で水や両親について揶揄されれば、じっと受け止める。つまり、両親を受け容れている。片思いの南先生にまつわる一連のエピソードの残酷さには、胸が詰まる。夕方の公園で南先生や友だちといっしょに目撃した不審者は、揃いの緑色のジャージを着て、頭にのせたタオルに水をかけ合う儀式を執り行う自分の両親だった。その怪しい光景を恥ずかしさとして認識しつつも、ちひろは家族を否定せず、集会にも参加するのだ。
家族とは何だろうか。お互いをかけがえのない者として愛し、信じ合うのが家族であるならば、一蓮托生(いちれんたくしょう)を選ぶことはうるわしい行為なのだろうか。当事者たちにとっては幸福な絆であっても、ちひろと両親の姿には社会的破綻の気配が忍び寄っている。たとえ受難に身を投じたとしても、それは幸福を意味するのだろうか?
ラストに用意された「星々の郷」での合宿シーン。星降る夜、丘の上でちひろが遭遇する出来事には言葉を失うほかない。愛し、信じ合っていても、べつのものを見ているのかもしれないという戦慄、あるいは悲劇。
残酷さと無垢の純度は比例するとでもいうように、作品自体がとてつもない透明感をまとってうつくしい。いっそう怖い。