芥川賞候補『星の子』が描き出す“むきだしの真実”
ものを知っている人のほうが、知らない人より賢い。一般的にはそう考えられている。ところが、「知らざる人の目」を通してくっきり見えてくるものがある。知らない、見えない、わからないというのは、知った、見えた、わかった後からすると、二度と取り戻せない「力」でもあるのではないか。今村夏子の『星の子』を読んで、そんなことを思う。『星の子』は、ひとりの少女が目覚めに向かう物語であり、一方、「知らざる人の目」を失っていく、子ども時代との別れの物語でもあるだろう。
語り手は現在、中学校三年生の「林ちひろ」。ちひろと家族の来し方が、おおむね時系列順に回想されていくシンプルな構成だ。
今村夏子は前作「あひる」でも新興宗教を扱っていたが、本作ではそれが物語の中心にくる。未熟児で産まれたちひろは病弱で、五歳のころには、原因不明の湿疹に悩まされた。真夜中に起きてかゆみで泣き叫び、父母はなすすべもなく「おいおい」泣いた。父が会社の同僚の「落合さん」に相談すると、よろずの病に効くという水を分けてくれ、その水でちひろの体を洗ううちに、二カ月ほどで湿疹が全快――これが、ちひろの父母がこの宗教にはまっていくきっかけだった。
この教会は「金星のめぐみ」という怪しげな聖水や水晶や花瓶を売り、県境に「星々の郷」という広大な教団の施設をもち、系統だった幹部組織を有している。と聞けば、信者以外はみんな、「それってカルト宗教じゃん!」とツッこむだろう。しかし、今の教会の説明は私が本書を読み通してから(すなわち「知る人」が)書いたものであり、作中にこんな表現でまとめられているわけではない。『星の子』は全編、いまだ「知らざる人」の視点で書かれており、そのため視野は狭く、知識はかぎられ偏っており、基本的には語り手がその時々の年齢なりに理解し記憶していることしか語られない。
たとえば、ちひろが初めて落合さんの家にいったときのこと。おじさんとおばさんの頭には「白いものがのっていた」。「わたしはなんだかおかしくなった。……白いタオルだったのだ」と語られる。そのほか、林一家が何度か引っ越していること、そのたびに「家が小さくなっている」こと、父がもとの会社を辞め、教会の紹介で再就職したこと、父母とも何年も前のバザーで買った緑色のジャージの上下をいつも着て頭に白いタオルをのせていること、ふたりともあまりお腹がすかないと言って、一日に一食ぐらいしかたべないこと、よく落合家から食べ物をもらってきてちひろに食べさせること、教会のリーダーたちに「だまされた」と訴えている女性がいることなどが、とくに批判や糾弾なしに淡々と語られる。
「知らざる人」から淡々と差しだされてくる事実は、むきだしであるだけに、その重みがいっそう際立つ。
信者たちのまわりで、はっきりと反対の意思を表すのは、ちひろの姉と、落合家のひとり息子、そしてちひろの叔父と叔母だ。しかし、ちひろの心にも少しずつ変化が起きていく。よく読めば、淡々とした言葉のなかに、「うっすらと知る人」、すなわち覚醒の間際にいる人のまなざしがにじみでている。わたしはこの手法から、ヘンリー・ジェイムズの名作『メイジーの知ったこと』を思い出した(身勝手な両親の離婚で、少女がふりまわされつつ、おとなの世界を観察する話です)。最後には、愛しているはずの人々と同じものが見えなくなる。
宗教とはまったく別件(と見せかけて)で、心理がスイッチする一瞬をとらえた場面がある。ちひろは小四で「ターミネーターII」と出会って、超美少年のエドワード・ファーロングに激惚れし、すると翌日から、好きだった西条くんもだれもかも、「なにかのまちがいではないかと思うほど」ぶさいくに見えて衝撃を受けるのだ。見えてしまった、もう「見えない力」は取り戻せない。さて、これは覚醒だろうか、むしろ洗脳だろうか? 真実の姿が見えてきたのか、はたまた、エドワード・ファーロング教にはまってそれ以外は間違ったものに見えてきたのか。目の前の世界が一変する瞬間をあえて戯画的に描いているが、この作品の要諦となる場面だろう。
本作の三分の二が割かれている中学三年のときに、ちひろにとって大きな出来事が続けて起きる。恋愛、受験、その先の進路、そして「星々の郷」への旅、両親との関係……。
篤信と妄信、忠誠と不寛容、愛と狂気の境はどこにあるのか。作者にとってまちがいなく大きな転換点となる力作だ。