前書き

『国民国家のリアリズム』(KADOKAWA)

  • 2017/12/07
国民国家のリアリズム  / 三浦 瑠麗,猪瀬 直樹
国民国家のリアリズム
  • 著者:三浦 瑠麗,猪瀬 直樹
  • 出版社:KADOKAWA
  • 装丁:新書(248ページ)
  • 発売日:2017-09-08
  • ISBN-10:4040821696
  • ISBN-13:978-4040821696
内容紹介:
自衛隊、安倍加憲案、戦略特区、五輪……欺瞞を排した徹底論議。

まえがき

数多くの戦争映画を観てきた。僕が戦争映画が好きだったからというより、戦争をテーマにした映画があまりにも多くつくられてきたせいだと思う。戦争のスペクタクルな戦闘シーンはテレビでは描けない。小説やルポルタージュにも秀でた作品もたくさんあるが、暗い映画館の巨大な画面や音響効果による映像は戦争を再現するには最も適しているからだろう。

二〇一七年六月に日本公開となった「ハクソー・リッジ」(監督メル・ギブソン、主演アンドリュー・ガーフィールド)は、主役が敵を殺す兵士でなく負傷兵を救護する衛生兵というきわめて特異なめずらしい映画であった。

舞台は太平洋戦争末期の沖縄戦である。場所は首里城の近く、ハクソーとは糸ノコギリ、リッジは断崖を意味する。糸ノコギリで切断したような急峻な絶壁を攻め上る米兵に対して、塹壕に立て籠もり頂上に登ってくるところで攻撃を仕掛ける日本兵により、壮絶な白兵戦が繰り広げられた。ハクソー・リッジでの死闘は沖縄戦全体のなかではごく一部であり十日間ほどで終わっているが、死傷者の比率がきわめて高かった。

戦場はいつも悲惨だが沖縄戦は民間人を巻き込んでの消耗戦であった。米軍側に一万四千人の死者、七万二千人の負傷者が出た。日本側の犠牲者は十八万八千人、その半数が民間人であった。

ハクソー・リッジの戦闘で、映画の主人公の若い衛生兵は銃を持たずに身体を屈めながら駆けずり回り、米兵が断崖から一時的に撤退した際に、一人で敵のエリアに残留して身を隠しながら負傷兵の救出にあたった。彼は、七十五人の負傷兵の命を救って、後に名誉勲章を受けることになる。

衛生兵が主役の戦争映画をあえて観に行ったのは、日本国憲法のなかで自衛隊はあたかも架空の存在のごとく位置づけられていることにより、戦闘シーンもまた架空の世界のように想像されていると思われるからだ。そうであれば、負傷した兵士の存在もリアリティがないし、それを緊急に救わなければならない衛生兵の位置づけもさらに曖昧にされてしまう。衛生兵は敵を攻撃するのでなく、ひたすら負傷兵を助けるまさに自衛の隊員そのものともいえる。

戦争映画における戦闘場面では「おーい、ドク! 助けてくれ」と叫んでいるシーンが頻繁に出てくる。「ドク」とはドクターだが、本来のドクターは医者の資格をもつ軍医で野戦病院のテントの下で負傷兵を手術しており、戦闘の現場では鉄兜や腕章に赤十字マークをつけた衛生兵がドクターなのだ。衛生兵は、モルヒネの注射だけでなく応急処置としての医療行為が許されている。応急的に止血、点滴、注射、縫合、命を救うためにできることは何でもやらなければならない。

「ハクソー・リッジ」でも、主人公は弾丸が飛び交う戦場で、片足が吹き飛んだ負傷兵の腿に止血用のタオルを縛り安全なところまでズルズルと引きずって退避させたり、血漿が眼に入り一時的に視力を失った兵士の眼を水で洗ったり、内臓が露出して呻き苦しんでいる兵士にモルヒネ注射を打ったりと、さまざまな応急治療を施すシーンが出てくる。

この映画のなかの敵は日本兵であり、主人公は撃たれずに生き残ってくれ、と感情移入して観ていたが、そのために同胞が死ぬのは我にかえると後味がよくない。救いは、この「良心的兵役拒否者」は、戦場で日本兵の手当てもしたと伝えられていること、宗教的な普遍的良心の持ち主ということだろう。

主人公の衛生兵は良心的兵役拒否者だったという実話にもとづいており、実際に敵を殺す銃を持たないばかりか護身用のピストルすら持っていない。鉄兜に赤十字マークをつけているから敵兵から狙い撃ちされないかというとそうではなく、むしろ逆に攻撃されやすい対象とわかりやすいため、赤十字マークのない鉄兜を被って無防備な反撃のできない装具のまま、飛び交う弾丸のなかを腰を屈めて走り回った。

映画が戦闘シーンへと移る前、志願兵である主人公は、志願兵訓練所で銃の所持を拒否したことにより、兵舎では夜になると仲間のいじめに遇い、殴られ蹴られした。さらに軍法会議にかけられ軍の刑務所に収監される寸前で、軍法会議は最後に良心的兵役拒否を認めた。キリスト教のなかには、人を殺してはならない、という教えがある宗派もある。主人公はそうした神の教えに従いつつ、国民の義務も果たそうとして衛生兵を志願した。

主人公は、上官に対して自分は人を殺さないので銃は持たない、とロジックで突っぱねるのだが、殴られても自分の主張を曲げない個人の芯の強さに感心した。日本人は集団に埋没してしまい、個としての信念や信条を貫き通す、拠り所としての神がいない。だからこうした個人の強さは日本人にはあまり見られないし、信仰の自由という権利を尊重する環境が成熟していない。

かつて僕は『ミカドの肖像』に、一九八一年に制作された「炎のランナー」という映画について記述している。ヒュー・ハドソン監督の作品で、アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した映画である。一九二四年、第一次世界大戦直後のパリで開かれたオリンピックに出場したイギリス人ランナーの実話である。これも個人が抱く信念の強さが際立った映画だった。

主人公のランナーは最初、百メートルに出場するつもりだったけれど、レースが日曜日で安息日に当たったので辞退を願い出る。パリに行幸中のイギリスの皇太子(後の国王エドワード八世)のところに連れて行かれ、皇太子から直々に出場を促された。だがついに応じなかった。そのときのやりとりが興味深い。

ランナー「神は国と王を造り、法を定めた。その法は安息日は神のものと言っている。その通り守ります」

皇太子「君も私も英国民に生まれた。同じ民族遺産、絆、忠誠心を分かち合っている。時には忠誠心の名の下に犠牲を強いられる。犠牲なくして忠誠はありえない。君にとっては、いまがその時だ」

ランナー「祖国を愛しています。だが、このことだけは……」(猪瀬直樹『ミカドの肖像』)

「国のために出てくれ」と皇太子から説得されても、若者は「私は国とではなく、神と契約をしている」と言って頑として応じなかった。神への信仰のほうが国家への忠誠より上にある、なぜなら地上の王国は神がつくりたもうたものだから。「ハクソー・リッジ」の主人公と重なる場面である。

結局、「炎のランナー」の主人公がどうなったかというと、百メートルには主人公のライバルのイギリス人が出場して優勝する。そして、主人公は安息日でない木曜日に行われた四百メートルに出場して優勝、イギリスは二つの金メダルを得たのだった。

(次ページに続く)
国民国家のリアリズム  / 三浦 瑠麗,猪瀬 直樹
国民国家のリアリズム
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  • 装丁:新書(248ページ)
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自衛隊、安倍加憲案、戦略特区、五輪……欺瞞を排した徹底論議。

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