ほとんどの小説は文章の態をなさないものに変じた。だが、中に一つだけ「目に見えるもの」についての描写を削り落としても、骨格が揺るがない小説があった。その文章は音と匂いと味と肌触りについての記述だけで満たされていたのである。
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』である。
江さんのこの本から「視覚情報」を抜いても、たぶん文章の魅力はほとんど減じることがないだろう。文章をぐいぐいと前に進めているのは、江さんのがっちりとした筋肉と太い骨と消化力旺盛な内臓である。
例えば元町の餃子店の話。
席に着くや二人前あるいは三人前とビールを注文して、早速「でへへ」とばかりに「マイたれ」を調合しだすのだが、箸でかき混ぜて味を見て、「お、もうちょっと味噌やなあ」とか「今日は酢多めの方がうまい」とか、餃子が焼き上がってくる前に、すでに箸を舐めながらビールを飲んでいる。
こういう文章を書ける人は今の日本には江さんしかいない。
「後味」という言葉はあるが「前味」という言葉はない。でも、ここで「箸を舐めながらビールを飲んでいる」江さんは、あきらかにこのあと出てくる、カリッと焼き上がり、じわっと脂のしみ出した餃子の「前味」を想像的に先食いしている。食べ始める前に「これから食べるもの」への期待で身体が前のめりになっている状態(かつて椎名誠が「胃袋がカツ丼のかたちに凹んでいる」と称した状態)こそ私たちが経験できる美味の極致だと私は思っている。
グルメの美味自慢が面白くないのは、それが所詮「食べたあとの感想」だからである。
ほんとうの美味は「食べる前」に、これから匂いを嗅ぎ、舌に載せ、歯茎を押しつけ、奥歯で噛み砕き、喉を嚥下する「もの」への期待で身体が小刻みに震えているときに経験される。
幾千もの夜と昼を街場の風にさらして歩き続けてきた「生身」だけが「これから食べるもの」をその細部に至るまで先駆的に想像して、美味の極致を経験できるのだということを江さんに教えてもらった。