異物の排除が進む恐怖
内田樹氏の書くものはひと筋縄でない。合気道の達人で、エマニュエル・レヴィナスの研究者。油断すると一本取られてしまう。今回テーマは神仏習合だ。《話があちこちへ散らばっ》た(あとがき)とあるが、むろんわざと。軸足がちっともぶれていない。
ソマリアで人道支援をする青年がはるばる訪ねて来た。「人間関係というのは共感をベースにしないと成立しないものでしょうか?」。訊ねる声がいい、笑顔がいい、握手がいい。海賊や殺人犯を更生させる修羅場も務まるだろう。《おぬし、できるな》と二秒で見抜く。本書はこんな武道の技の連続である。
さて、明治の神仏分離令で、神道と仏教が別々にされた。神社の社僧らは《還俗(げんぞく)帰農するか、神官に職業替えするか二者択一》を迫られた。千年以上の伝統が一夜で消えた。なぜ誰も反対しない? 内田氏はこの謎を追って行く。
そもそも日本は雑種文化なのだった。両立するはずがないものを受容する。やがて化学反応が起こり、異質なものも共存できるようになる。かけ離れた他者の間に共通項がみつかる。それを繰り返してきた。内田氏はここに、わが国独自の創造力の源をみる。
白人至上主義や排外主義はなぜだめか。俺たちの不幸はあいつらのせい。ナチスはユダヤ人を排除し抹殺した。でも戦況は好転しない。チャーチルもスターリンもユダヤ人の手先なのかも。戦況がなお悪化した。軍中枢にユダヤ人が隠れているに違いない。異質な他者を排除すれば問題は解決する、はありがちな妄想なのだ。
共感できる同質な人びとと社会をつくろう、も危険である。レヴィナスの《重要なテーゼ…は「他者との関係は…共感の上に基礎づけるべきではない」》だ。人間は互いに理解も共感もしにくい。だから最低限のルールだけ守ろう。多様な人間が自分らしく行動し、結果が調和すればよい。そんなやり方を「習合的」という。
この観点から、日本社会の現状を丹念にチェックしていく。若者の行き過ぎた共感文化。農業と市場のミスマッチ。日本的雇用慣行の崩れ。ひきこもりも実は仕事ができること。日本的民主主義の可能性。多様なテーマが「習合的」に論じられている。
内田氏が《この本を書いた動機…は、「恐怖心」》だという。異物を排除し話を簡単にしたがる人びとが、年々増えている恐怖心。民主主義の危機につながる。
独裁は効率がいい。民主主義は議論に時間がかかる。独裁者は異質な他者を排除し、つぎつぎ最適な決定を下す。人びとは服従しそれなりに幸福だ。だが民主主義は危機に強い。自分は意思決定に加わった、危機は自分の責任だ、と思う人びとが起ち上がる。独裁では、危機は誰かのせい、独裁者のせいだ。誰も起ち上がらず体制が倒れるに任せる。大勢に順応する事大主義の日本は、民主主義から遠ざかっていないだろうか。
「習合」の反対は「純化」。何でも単純にし、異質な要素を排除して効率的にする。対する内田氏は少数派。数十年先の読者に言葉を届ける。わかりやすい。《「すごく頭のいい人」は…「頭が大きい」》という。どんな要素も取り込めるからだ。本書は「頭が大きい」内田氏の頭の中身を体感できる本。「純化」好みの多数派の人びとには手に負えない本だ。