身体の柔軟さには思考の柔軟さも必要
自分の写真を見て、あまりの猫背っぷりに呆れる。整骨院に駆け込むと「万病のもとですよ」と深刻な顔をされ、猫背矯正が始まった。体と向き合う行為を怠ってきたのは、筋トレ=「マッチョ」「気合」「根性」というキーワードに付随する短絡的な思考から距離を置きたいから、だったが、無論、それは言い訳。勝利、カネ、ランキング上位といった明確な目標に向かってシンプルな方法で解決を図る考え方を「筋トレ主義」と名付け、そこから脱け出す方法を画策する一冊。自分の身体に起きる「わからなさ」に明確な答えを出そうと急ぐのではなく、微細なシグナルを受容する「身体感受性」を大切にすべし、とある。
引っ越し業者の人たちは筋骨隆々ではなくても、あれこれを器用に持ち運ぶ。ある箇所をただただ鍛えるのではなく、効率的に筋肉をつけることでしなやかさを得る。フリークライマーの安間佐千(あんまさち)選手は「腕以外の部分に力を逃が」すことが大切と述べ、サッカーの長友佑都選手は「すべてのパーツがスムーズに連動していく」必要があると主張する。
目に見える明確な成果よりも全体としての柔軟性が重要。身体の柔軟さを把握するためには、思考の柔軟さも必要になる。それはスポーツに限らない。生きていれば、誰にでも「うまく立ちゆかない場面」がやってくる。「複雑に絡み合った結び目」をどうほどくかを考えずにナイフで一刀両断すれば結び目はなくなるが、それは解決ではない。
身体に思考をぶつける。思考を身体にぶつける。そうやってしなやかさを得る。「脱」にはあらゆる可能性が残されている。日頃、頭の中の混雑をほどこうとしているのに、身体を徹底的に放置してきた私は、本稿を極度の猫背で書き終えた。その点、説得力がなく、申し訳ない。