解説

『エプタメロン―ナヴァール王妃の七日物語』(筑摩書房)

  • 2017/04/23
エプタメロン―ナヴァール王妃の七日物語 /
エプタメロン―ナヴァール王妃の七日物語
  • 翻訳:平野 威馬雄
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(354ページ)
  • 発売日:1995-03-00
  • ISBN-10:4480030220
  • ISBN-13:978-4480030221
内容紹介:
恋人ふたりを死に至らしめた公妃の恐しい淫乱とは。臨終の床から妻を蘇らせた夫の浮気とは。16世紀中葉フランスの一地方の王妃マルガリータが現実の事件に基づいて描いたと言われる香りゆかしい艶笑物語。みだらな濡れごとから、貞潔で至福に満ちた愛が生まれることもある。人間の情欲の奥深さ、愚かさを知りぬいた、フランス版デカメロン。

コキュ文学の可能性

十六世紀フランスには、マルグリット・ド・ヴァロワという名の有名な姫が少なくとも二人いて、ともに当時、南フランスにあった独立国ナヴァール王国の王に嫁いでマルグリット・ド・ナヴァールと呼ばれるようになったため、混同されることが多い。

一人は、イザベル・アジャーニ主演、パトリス・シェロー監督で映画化されて話題になったアレクサンドル・デュマの小説『王妃マルゴ』のヒロインで、アンリ四世の最初の妻となったマルグリット・ド・ヴァロワ(一五五三―一六一五)である。愛称をマルゴといったこのマルグリット姫は、アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディシスの三女として生まれたが、母后カトリーヌ・ド・メディシスによって政敵プロテスタントの首領ナヴァール王アンリ(後のアンリ四世)と政略結婚させられ、最後はアンリ四世から離婚されて悲劇の生涯を閉じた。美貌と派手な男性遍歴によって知られ、歴史上もっとも淫蕩な王妃として多くの作家の想像力を刺激している。もう一人はフランソワ一世の姉で、アランソン公シャルルに嫁いだ後、ナヴァール王アンリ・ダルブレと再婚して、ナヴァール王妃となったマルグリット・ド・ヴァロワ(一四九二―一五四九)で、通例こちらのマルグリットはマルグリット・ド・ナヴァールの名前で呼ばれている。彼女はイタリア・ルネッサンスの文芸に親しむと同時に、迫害を受けていたプロテスタントの多くの文人の保護者となったことで有名な当代一のインテリ女性だった。

本書『エプタメロン(七日物語)』は、一五四五年に仏訳されたボッカチオの『デカメロン(十日物語)』を読んだこのマルグリット・ド・ナヴァールが、同じ形式のフランス版の風俗説話集を編もうと、宮廷で自らが耳にしたエロチックな逸話を集大成したものである。中世フランスの説話文学ファブリオーの伝統をくむ大らかな性表現と、禁欲を説くプロテスタンティズムのモラルが不思議な形で混在し、語られるエピソードは艶笑小話的だが、それを語る口調はストイックで道徳的というその独特のスタイルの故に今日もなお高い文学的評価を得ている。

なお、このマルグリット・ド・ナヴァールの娘のナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレは、母親にならって熱心なカルヴァン派のプロテスタントとなり、ヴァロワ王朝の分家ブルボン家の当、王アントワール・ド・ブルボンと結婚し、夫と共にプロテスタント勢力の中心人物として、カトリーヌ・ド・メディシスなどのカトリック勢力と鋭く対立したことで歴史に名を残している.ジャンヌ・ダルブレは、夫との間に王子アンリ・ド・ナヴァールを設けたが、このナヴァール王アンリと結婚したのが、前記のマルゴだから、マルゴから見れば、『エプタメロン』の作者マルグリット・ド・ナヴァールは、祖父のフランソワ一世の姉すなわち大伯母に当たり、同時に、夫の祖母ということになる。

「フランス文学は、恋愛文学ではなく、コキュ(間男された亭主)の文学だ」と看破されたのは、河盛好蔵氏だが、『エプタメロン』を読むと、改めてその感を強くせざるをえない、というのも、『エプタメロン』のどのエピソードにおいても、その中心をなすのは、年上の男と結婚して不満を抱える人妻が、若い男と逢い引きするために様々に工夫して夫を騙すという話か、あるいは逆に、妻の浮気に感づいた亭主がその浮気の証拠をつかもうと苦心するという話のいずれかであるが、これは、十九世紀の『ボヴァリー夫人』以後、無数に生み出されてきたフランスの姦通小説においても基本的には変わっていないからである。すなわち、フランスにおいては、恋愛という言葉は、結婚前の若い男女がボーイ・ミーツ・ガール風に出会って初な恋をすることに対して使われるのではなく、人妻が結婚後に、亭主以外の愛人を見つけてアヴァンチュールを楽しむことに対して用いられると断言してかまわない。これは、時代が変わり、恋愛が現代的装いを帯びても構造的にはまったく同じである。現代のフランス小説やフランス映画でも、ヒロインの八十パーセントは人妻である。

「もし、コキュになりたくないと思ったなら、結婚しないことが、それを免れる唯一の方法だ」(モリエール)

とはいえ、構造は同じでも、フランス風恋愛の内実は、『エプタメロン』の時代と現代では、やはり相当に異なっている。

その最大の相違は、ほかならぬコキュつまり妻に間男される間抜けな亭主の性格にある。

一般に、十九世紀以前のフランス社会にあっては、結婚は、恋愛感情に基づいて行われる心理的行為ではなく、家と家との金銭の交換を目的とした経済的行為だった。若くて美しい娘をもった家庭では、その娘をどれくらい高く花婿候補者に売り付けることができるかを第一に考えた。結婚の交渉は、双方の恋愛感情とは無縁のところで運ばれたので、十六、七の娘が五十、六十のむくつけき老人に嫁ぐということは日常茶飯事で、むしろその逆のほうが少ないくらいだった。その結果、若妻が女盛りを迎えるころになると、年上の夫は、男として、妻の欲求をとうてい満たすことができなくなる。そこで、妻は、当然のように浮気に走る。キリスト教の「汝、姦淫することなかれ」のモラルでは、もちろん、こうした婚外セックスが認められるはずはないのだが、カトリックというのは形式主義的な側面が強いので、たとえ誤りを犯しても懺悔さえすればそれで許されると、人妻はもちろん、その浮気相手となった愛人も、また懺悔を聞く僧侶も、皆がそう思い込んでいた。一言でいえば、人妻の浮気は性の暴発を防ぐための一種の社会的習慣と化していたわけである。

では、肝心のコキュ、つまり、女房に間男された亭・王は、この「必然的行為」をどう考えていたかといえば、このコキュは、見かけはともかく、内実は、ほとんどが自らの立場を甘んじて受け入れていた。それというのも、滑稽に見えることが最大の屈辱であるフランスにおいて、自らコキュであることを、大騒ぎしたり嘆き悲しんだりして他人に教えてしまうようなコキュは、滑稽の最たるものだったからである。

「パリではローマと流儀が違うことをご承知ください。
そこでは、嘆き悲しむコキュは馬鹿者だと思われます。
反対に、笑ってすませるコキュは、人格者として通っています」(ラ・フォンテーヌ)

ようするに、コキュは、たしかに、人から馬鹿にされ、笑いの対象とされてはいたが、けっして社会から指弾されるような存在ではなく、むしろ社会の潤滑剤のような役割を果たしていたのである。なぜかいえば、フランスにおいては上は王様から下は貧しい農夫まで、社会の男すべてが潜在的なコキュだったからである。この点、姦通は死罪とされた武家社会の伝統を受け継いでいた昨日までの日本とは大いに異なっている。

しかしながら、フランスの伝統でさえあったこの「人格者」のコキュも、最近の文学や映画から察する限りでは、女性の経済的な地位の向上と打算的結婚の減少により、根底から様変わりをせまられているようだ。つまり、性的な劣位を経済的な優位によって補っていた「笑ってすませるコキュ」が減り、性的にも経済的にも妻より劣位に置かれた「嘆き悲しむコキュ」が増えてきているのである。コキュは、喜劇の登場人物ではなくなり、悲劇の登場人物になりつつあるのだ。これは、フランスの文化にとって進歩と呼んでいいのか、退歩と呼んでいいのか、にわかに判断のつきかねるところである。 

反対に、既婚女性の性の解放が恐るべき勢いで進行している日本では、いずれ『エプタメロン』のようなコキュ文学の傑作が生み出されるにちがいない。コキュに関するかぎり、どうやら日本は、フランスよりも、はるかに将来的発展可能性に富んでいるようである。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:479496496X
  • ISBN-13:978-4794964960
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

エプタメロン―ナヴァール王妃の七日物語 /
エプタメロン―ナヴァール王妃の七日物語
  • 翻訳:平野 威馬雄
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(354ページ)
  • 発売日:1995-03-00
  • ISBN-10:4480030220
  • ISBN-13:978-4480030221
内容紹介:
恋人ふたりを死に至らしめた公妃の恐しい淫乱とは。臨終の床から妻を蘇らせた夫の浮気とは。16世紀中葉フランスの一地方の王妃マルガリータが現実の事件に基づいて描いたと言われる香りゆかしい艶笑物語。みだらな濡れごとから、貞潔で至福に満ちた愛が生まれることもある。人間の情欲の奥深さ、愚かさを知りぬいた、フランス版デカメロン。

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