前書き

『渋沢栄一 上 算盤篇』(文藝春秋)

  • 2019/04/10
渋沢栄一 上 算盤篇  / 鹿島 茂
渋沢栄一 上 算盤篇
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(549ページ)
  • 発売日:2013-08-06
  • ISBN:4167590077
内容紹介:
ドラッカーも絶賛した近代日本最高の経済人。彼の土台となったのは、論語と算盤、そしてパリ仕込みの経済思想だった。鹿島茂が描く!

まえがき――渋沢栄一とドラッカーとサン=シモン主義と

もう五、六年前のことになるだろうか、六本木ヒルズに住む若きリッチマン、リッチウーマンを集めて座談会をやるから司会をやってくれないかという変な依頼が舞い込んできた(『オール讀物』二〇〇六年二月号)。日本中がミニ・バブルに沸いていた頃のことである。私は原則的に座談会や対談はどんな相手でも引き受けるので、座談会の場所に指定された六本木ヒルズ最上階のレストランに出掛けていき、若きリッチマンやリッチウーマンが自慢げに語る荒稼ぎや派手な金の使いっぷりの話に耳を傾けた。そして、座談会の後に、渋沢栄一の伝記を書き、資本主義の本質とはなにかを考えた人間の発言として聞いてほしいと前置きして、次のような内容のことを口走った。

「おおいに稼ぎ、おおいに使うのはまことに結構。ぼくはそうしたことは否定しない。ただ、君たちがこれからもっと稼いで、もっと使いたいと願うなら、どこかでモラルを尊重しなければならなくなる。モラルというものをあまり馬鹿にしすぎると、モラルが機嫌を損ねて、思わぬ逆襲をしてくることがある。どこまでも自己利益の最大化で行こうとするとかならず破綻する。それが民主主義の与えた最大の教訓なのだからね」

私がこの言葉を発したとたん、それまで和気あいあいと語りあっていたリッチマン、リッチウーマンの顔色が変わり、激しい反発の言葉を浴びせられた。それは、ホリエモンや村上某が発したとされる「金儲けは悪いことなんですか?」の類いの言葉だった。もちろん、彼らは私が言おうとしていた言葉の真意がわかっていなかったのである。

私が言おうとしたのは至って単純なことだ。

資本主義というのは、自己利益の最大化を狙う人間(ケインズのいうエコノミックマン)たちが参加するバトル・ロワイヤルのようなものだが、最終的勝利者になるのは、どういうわけか、強欲一辺倒の参加者ではなく、モラルを自分の商売の本質と見なす渋沢栄一のような参加者と決まっている。理由は簡単で、その方が永続的に儲かるから。金儲けは決して悪いことではないが、自己利益の最大化だけを狙っていくと、どこかで歯車が逆回転し始め、最後は破産で終わる。世間や社会が許さないということではなく、資本主義の構造がそのようになっているから。「損して得取れ」とはよく言ったものだ、云々。

その後すぐに、ホリエモンの逮捕があり、それからさらに数年後、リーマン・ショックに端を発した世界恐慌があり、私の与えた教訓の正しさが見事に証明されるかたちになってしまった。

しかし、当然ながら、座談会に加わったリッチマンやリッチウーマンが、あのとき、私の与えた教訓を噛み締め、その後の金儲けに役立てたということはなかっただろう。なぜなら、「損して得取れ」は、バトル・ロワイヤル的戦いに最終的に勝ち抜いた者でなければ口にできない金言であるという矛盾、つまり「事後性」を含んでいるからである。

そう、アメリカウォール街の住人も日本のヒルズ族も「あとになってから」ようやくこの金言に思い至ったにちがいない。バトル・ロワイヤルの最中には決してそういうことは思いつかないのである。

この意味で、近代日本は、世界に類を見ないほどの幸運に恵まれていたといえる。

なんのことかというと、日本の資本主義は、この「損して得取れ」という思想をバトル・ロワイヤルが行われる以前にすでに体得し、血肉化していた渋沢栄一という例外的な人物によって領導され、実に効率よく高度資本主義の段階に入ることができたからである。

言い換えると、渋沢栄一と言う奇跡的な人物が現れて、弱肉強食原理による「万人の万人に対する」闘いを近代日本に回避させることができたがため、日本資本主義は一気に離陸(テイク・オフ)したのである。

このことは、近年、ふたたび注目されるようになったピーター・ドラッカーがつとに指摘していることである。

「明治という時代の特質は、古い日本が持っていた潜在的な能力をうまく引き出したことですが、それは、渋沢栄一という人物の生き方に象徴的に表されています。渋沢は、フランス語を学び、ヨーロッパに滞在し、フランスやドイツのシステムを研究しました。そうしたヨーロッパのシステムを、すでに存在していた日本のシステムに、うまく適合させたのです。

実にユニークなことだし、そのようなことを成し遂げた国や人びとはほかには存在していません」

「渋沢のもうひとつの大きな功績は、一身にして立案者と実行者を兼ねて、事業を推進したということです。

彼には思想家である側面と行動家としての側面を結合するユニークな才能がありました。ふつう、思想家というものは行動することが苦手で、行動家は思想家から考えを借りるものです。渋沢は思想家としても行動家としても一流でした。
(中略)
渋沢は希有の存在であり、たいへんユニークな人間です」(ともに、『NHKスペシャル 明治 一 変革を導いた人間力』NHK出版)

では、ここでひとつ問うてみることにしよう。

ドラッカーのいうような奇跡を日本の資本主義にもたらした渋沢栄一とはどのような人物であり、また彼はいかにして「損して得取れ」という偉大なる「思想」を「事前的」に体得することができたのかと?

私がこれから示そうとする渋沢伝は、渋沢にのみ可能となったこの「事前性」の由来を、幕臣だった渋沢がパリで出会ったサン=シモン主義という新しい光源の助けを借りて解明しようという試みである。
渋沢栄一 上 算盤篇  / 鹿島 茂
渋沢栄一 上 算盤篇
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(549ページ)
  • 発売日:2013-08-06
  • ISBN:4167590077
内容紹介:
ドラッカーも絶賛した近代日本最高の経済人。彼の土台となったのは、論語と算盤、そしてパリ仕込みの経済思想だった。鹿島茂が描く!

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