書評
『モードの帝国』(筑摩書房)
内容と形式の一致した本を書く。これは物書きなら誰もが一度は夢見ることである。映画を語るのに映画の文体で書く。パリを語るのにパリの文体で書く。ではモードを語るのに、モードの文体で書くとは? もちろん、モード雑誌のような雑駁(ざっぱく)な文体でモードを語るのではない。「ケスク・ラ・モード(モードとは何か)」という無骨な問いを発して本質を露呈させながら、一方で、モードのように華麗でしかもシックな、エフェメラの文体で、さりげなくその本質を隠蔽してしまう。そのとき、形式は内容に張り付いて、もはや見分けがつかない。『モードの帝国』の著者の狙いは、まさにここにある。
したがって、まず読者はパリ・コレのステージを見つめる時のようにエレガントな、あるいはセクシーな文体の乱舞に、幻惑されることになる。「空虚のエロス」「ファッション/誘惑ゲーム」「惑乱しに、とモードは言う」「小物の物語り」「シャネル 皆殺しの天使」「ドレスの涙」各章に付された、こうした何とも小粋なタイトルに誘惑されてページを開いた読者は、ソニア・リキエルのように蠱惑的(こわくてき)でパラドクサルな、スキャパレリのように唐突でスキャンダラスな、シャネルのようにシンプルでテロリスト的な文体たちに好きなようにもてあそばれ、そのまま放りだされてしまう。序論、本論、結論タイプのダサイ書物しか知らない読者が、モードの本質を教えてくれる約束だったのに、とあとから泣き言をいっても始まらない。なぜなら、モードの本質はこれらの文体それ自体のうちに語られているからである。だがその本質は、さながらモードのように、開示されたと思う次の瞬間にはかき消されている。要点をくどくどと述べるほど野暮なことはないからだ。
だが読者がひとたびこの形式=内容というディスクールの約束事を体得するならば、そこに語られているモード論は、むしろモード論とは正反対の《論理性》に貫かれていることを知るだろう。あるいは著者にとっては侮辱とも聞こえるかもしれないが、この本は意外に「骨っぽい」のだ。
本書のモード論を要約すれば、それはまさに「空虚のエロス」という言葉に尽きる。モードという表面を剝いだところの、秘めやかな内奥にエロスが存在しているのではない。
このエロス論がそのままモード論となる。素顔を欠いた表面であるモードは理性を知らず、明日を知らず、永遠に繰り返される《いま》であり、透き通って何も隠していないが故に、強烈な伝染性を持つ。なんとならば、そこには《個》が、《実体》が欠如しているので、いくらでも交換可能だからである。
モードはまず王侯貴族を離れ、ついでポワレとともにブルジョワジーからも離床し、最後にシャネルによってモード・メディアというマスの上に着床したとき、《個》や《実体》を放擲(ほうてき)して、ついにあの透明性、表面性を獲得したのである。そして、そのときから、モードは女と同様に、男の視線の独占的な対象でしかない《室内》を離れ、「いまや誰のものでもなく誰のものでもあるメディアの部屋の中で華麗なモードの輪舞を舞い続けている」のである。
モードの帝国の本質を摘出する著者の文体は、その外見的な華麗さにもかかわらず、むしろ剣士のようなラコニスムを感じさせる。その意味でシャネルの《シック・シンプル》を内容と文体の両面で模した「シャネル 皆殺しの天使」は、全編中の白眉(はくび)となっている。図版の選択ひとつとっても、素晴らしいセンスを感じさせる一冊である。
【この書評が収録されている書籍】
したがって、まず読者はパリ・コレのステージを見つめる時のようにエレガントな、あるいはセクシーな文体の乱舞に、幻惑されることになる。「空虚のエロス」「ファッション/誘惑ゲーム」「惑乱しに、とモードは言う」「小物の物語り」「シャネル 皆殺しの天使」「ドレスの涙」各章に付された、こうした何とも小粋なタイトルに誘惑されてページを開いた読者は、ソニア・リキエルのように蠱惑的(こわくてき)でパラドクサルな、スキャパレリのように唐突でスキャンダラスな、シャネルのようにシンプルでテロリスト的な文体たちに好きなようにもてあそばれ、そのまま放りだされてしまう。序論、本論、結論タイプのダサイ書物しか知らない読者が、モードの本質を教えてくれる約束だったのに、とあとから泣き言をいっても始まらない。なぜなら、モードの本質はこれらの文体それ自体のうちに語られているからである。だがその本質は、さながらモードのように、開示されたと思う次の瞬間にはかき消されている。要点をくどくどと述べるほど野暮なことはないからだ。
だが読者がひとたびこの形式=内容というディスクールの約束事を体得するならば、そこに語られているモード論は、むしろモード論とは正反対の《論理性》に貫かれていることを知るだろう。あるいは著者にとっては侮辱とも聞こえるかもしれないが、この本は意外に「骨っぽい」のだ。
本書のモード論を要約すれば、それはまさに「空虚のエロス」という言葉に尽きる。モードという表面を剝いだところの、秘めやかな内奥にエロスが存在しているのではない。
女がかくも誘惑的なのは、まさに女が表面でしかないからだ。内部にどのような《秘密》も隠していないからだ。きらきらとまぶしく輝く美しいドレープはあなたの欲望をはずませる。あなたは秘密をのぞこうとして『包み』をほどきたくなる。けれど、あなたが女をほどいてしまえば、そこにあるのはただの空虚だけ。空っぽの箱。あなたの力はそこでくじかれてしまう。
このエロス論がそのままモード論となる。素顔を欠いた表面であるモードは理性を知らず、明日を知らず、永遠に繰り返される《いま》であり、透き通って何も隠していないが故に、強烈な伝染性を持つ。なんとならば、そこには《個》が、《実体》が欠如しているので、いくらでも交換可能だからである。
モードはまず王侯貴族を離れ、ついでポワレとともにブルジョワジーからも離床し、最後にシャネルによってモード・メディアというマスの上に着床したとき、《個》や《実体》を放擲(ほうてき)して、ついにあの透明性、表面性を獲得したのである。そして、そのときから、モードは女と同様に、男の視線の独占的な対象でしかない《室内》を離れ、「いまや誰のものでもなく誰のものでもあるメディアの部屋の中で華麗なモードの輪舞を舞い続けている」のである。
モードの帝国の本質を摘出する著者の文体は、その外見的な華麗さにもかかわらず、むしろ剣士のようなラコニスムを感じさせる。その意味でシャネルの《シック・シンプル》を内容と文体の両面で模した「シャネル 皆殺しの天使」は、全編中の白眉(はくび)となっている。図版の選択ひとつとっても、素晴らしいセンスを感じさせる一冊である。
【この書評が収録されている書籍】
中央公論 1992年9月
雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。
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