解説

『歴史の風 書物の帆』(小学館)

  • 2020/04/12
歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・… もっと読む
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・自伝・旅行記」「パリのアウラ」他、各ジャンルごとに構成され、専門分野であるフランス関連書籍はもとより、歴史、哲学、文化など、多岐にわたる分野を自在に横断、読書の美味を味わい尽くす。圧倒的な知の埋蔵量を感じさせながらも、ユーモアあふれる達意の文章で綴られた読書人待望の一冊。文庫版特別企画として巻末にインタビュー「おたくの穴」を収録した。

【解説】七つの埠頭の先に立って

解説の不要な本がある。申し分ない出来映えで、著者以外の人間にはなにひとつ付け加える隙を与えないような作品はもちろんだが、それとはべつに、ジャンルとして解説のたぐいを付すのが奇妙に感じられる本があって、書評集と呼ばれるものはその筆頭にあるといってもいい。書評を集めた本の書評をするなんて、いちばん外側に全体の響きを消してしまう異物が置かれるような入れ子細工をつくるに等しいからだ。しかし『歴史の風 書物の帆』という美しいタイトルを冠した本書は、そういう無駄な言葉をあえて繰り出したくなるような魅力にあふれている。

エピグラフに掲げられたヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』の一節に、まずは注目しよう。縦横無尽の引用と、それらのあいだを埋める遊びの効いた箴言(しんげん)・予言のパテからなるこの本の思考のありようは、じつに軽やかだ。弁証法などという重い単語が風と帆にはさまれた瞬間、パサージュ=路地=商店街全体が輝かしい海となって、私たちの頭脳に波音を送りはじめる。おびただしい書物は、もちろん大海にちらばる船。著者は好き勝手に旅だっていったそれらの船を、みずから作りだした風況のなかで、安全かつ確実に、しかも曳船(ひきふね)なしで港に呼び込む。堅牢な港はいくつものドックに分けられていて、船はそのつど、もっともふさわしい埠頭に係留される。

ただしこの港は、単行本から文庫本へと移るにあたって一部改修されている。本来は八つあったドックのうち、「昭和の『総括』」と題されたひとつが閉じられ、全体は文化史、社会史、都市論、パリ論、小説論、伝記・自伝・旅行記、そして横断的な知の祝祭の七つに縮小されているのだが、重要なのは、親本が刊行された一九九六年一月という日付である。つまり本書に収められているのは、その前年、一九九五年までの文章なのだ。戦後五十年目の節目となったこの年が、阪神淡路大地震、地下鉄サリン事件、フランスによるムルロア環礁での核実験強行等、暗く重い事件に覆われていたことはいまだ記憶にあたらしい。しかし、それとは異なる次元で大きな意味を持つのは、この年の終わりにマイクロソフトのWindows95が登場し、世界的規模の、情報の蜘蛛(くも)の巣が整備されはじめたことだろう。時間をかけ、汗水垂らして動き回って得た資料を丁寧に読み、足を運ぶことと考えることがまだ結ばれていた時代が、クリックひとつで時空を超える途方もない装置に幻惑される半歩手前でこれらの書評は書かれており、だから、船籍不明のあやしげな貨物船はひとつもないのである。

なにしろ品質管理が徹底されている。基本は「まえがきに代えて」という十一箇条の心得に記されているとおり、港に入ってきた帆船を隅から隅まで探査し、その特徴を、簡潔、明解にまとめること。簡単そうに見えて最も難しく、最も時間のかかるこの作業を、鹿島茂は苦労の跡を全く見せずにやってのける。字数の限定された内容紹介が自分に引きつけすぎて肝心の本がほとんど表に出てこない「エッセイ」風の雑文より劣る、と誤解している人はいまだ数多い。しかし、どこをどうまとめ、どの一節を引くか、それだけのことで、書き手=読み手の質は十分に、もしくはあからさまに示されるのだ。鹿島茂の書評には、誰が読んでも労せずして理解できる、じつに的確な内容紹介がある。この基本原理にくわえて、わざと遠回りの前振りをしたり、結論を冒頭に持ってきたり、引用に語らせたり、過去の入荷データと照らしあわせて文章の成熟ぶりを分析したりと、複雑なわざを駆使して個々の表情に変化を与えている。どこを採ってもいいのだが、たとえば『清潔(きれい)になる〈私〉――身体管理の文化誌』について書かれた一文の冒頭――。

今日の我々にとって、清潔と入浴はほとんど等しい意味をもっている。すなわち、風呂に入ってお湯で垢(あか)を洗い落とすことが即、清潔を意味している。ところが、歴史的にみると、ヨーロッパ、とりわけフランスにおいては、この二つが結びついたのはごく最近のことにすぎず、清潔と入浴はそれぞれ違う意味をもっていた。これが本書のいわんとしていることである。

いわんとしていることである、と言い切っているにもかかわらず、この一文は結論ではなく導入部で、あとはいきなり提示されたまとめの根拠をたっぷり見せてくれる構成なのだが、そればかりでなく、ふたつの近しい言葉がじつは見方次第で最も遠いものにもなりうるという、知の反転図形のあり方もうまくすり込まれている。おなじように、高山宏の『世紀末異貌』を語る頁(ページ)では、のっけから、この本を読んで「黄色地の楕円(だえん)の中でコウモリが翼を広げている」バットマンのマークを思い出した、と驚くべきたとえが繰り出される。「最初、このマークの黄色と黒を逆転して読んでいたので、子供が大口をあけて舌と喉彦(のどびこ)を覗(のぞ)かせている図と了解し」ていたのだが、じつはそうではなかった、と気を惹(ひ)いてから、高山宏の方法が「このバットマン・マークの黄色と黒の逆転」にあると説くのだ。

すなわち、氏の方法は、いままで隠されていた世紀末の巨人たちの側面や人知れず埋もれていた異端に再評価の光を当てるという、一昔前に流行した復権作業とは根本的に異なり、従来我々が常に目にしながら受け売りの紋切り型で了解し、事足りてきた世紀末の様々なファクターを独創的な視点によって反転させ『よく知られたものを《異貌(いぼう)》として断面させる』ことにある。

これはアルチンボルドの絵画を語る谷川渥や、資料そのものではなくその「語り方」にこめられた「社会的想像力」を分析していくアラン・コルバンにも通じる秘儀であり、いうまでもなく鹿島茂という読み手自身の目がどこに置かれているのかも明かしてくれる重要な一節だろう。反転の構図は、点と線で作り出す、あたらしい「面」の力への信頼にもつながる。藤森照信の『日本の近代建築』についての評に、「歴史家にとって最高の快楽」は、「散在する点をつなぐ線を見いだして『命名』を行い、定説を根底から覆す新説を打ちだすことだ」とあるけれど、これは新しい海図を引くことに等しい。書物の紹介と書評の論理の動きが連動したとき、今度は書評する側があたらしい「命名」をほどこす。その瞬間、おなじ船がちがって見えてくる。形は同一なのに、塗装が異なり、エンジンも換装されて、航跡が変わってくる。書評家もまた、つねに「異貌」を描き出そうとする歴史家なのだ。

ところで、七つのドック全体を束ねる最大の特徴は、翻訳書の多さだろう。十九世紀フランス文学・文化の専門家なのだから、自港を益するものを荷揚げするのは当然かもしれない。しかし、オリジナルラベルの品を手に入れて誰の手も借りずに賞味しうる人が、なぜ輸入元のシールが貼られた本をわざわざ取り上げなければならないのか? そこには、「あとがきに代えて」で詳述されているように、ほかならぬ書評というシステムそのものに対する懐疑と期待と鼓舞がこめられている。自分だけわかっていても仕方がない。本は本をめぐる言説によって育てられ、熟成し、いつか、どこかで、だれかすぐれた才能によって反転や線引きの機会を得る。あるいは、そういう可能性があると信じた本は、売るのではなく、語ることによって、可能なかぎり知の市場に出してやらなければならない。これは、自分自身を支えてくれた先達や書物に対する感謝の表明である。そしてまた、ある世代までは当たり前に共有されていた思いが失われつつあることへの、危機感の表明でもあるのだ。

港にどれほど輝かしい船が集まり、どれほど大切にメンテを施されていても、一九九五年あたりまでで、時代は港そのものの存在を気に留めなくなりはじめていた。よい船が繋がれ、それについて語る言葉もあるのに、人々は耳を傾けない。そうなると船どうしの対話もなくなって、現場で働く人々でさえ、管轄の船以外に興味を示さなくなってしまう。帆の張り方を論議しようにも、帆がないのである。つねに明るく、つねに前向きなリズムに貫かれているにもかかわらず、いま振り返ると、本書は大時化(おおしけ)になる直前に書かれた、どこか不穏な予感を抱えた文章の集積だと気づかされるだろう。

いまはただ、勤勉と放埓(ほうらつ)、誠実と無頼が同居するこの希有(けう)な港のにおいが、文庫版という新船に乗って若い世代に伝わっていくことを切に祈りたい。

【この解説が収録されている書籍】
歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・… もっと読む
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・自伝・旅行記」「パリのアウラ」他、各ジャンルごとに構成され、専門分野であるフランス関連書籍はもとより、歴史、哲学、文化など、多岐にわたる分野を自在に横断、読書の美味を味わい尽くす。圧倒的な知の埋蔵量を感じさせながらも、ユーモアあふれる達意の文章で綴られた読書人待望の一冊。文庫版特別企画として巻末にインタビュー「おたくの穴」を収録した。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・… もっと読む
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