書評

『FUTON』(講談社)

  • 2020/03/06
FUTON / 中島 京子
FUTON
  • 著者:中島 京子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(384ページ)
  • 発売日:2007-04-13
  • ISBN-10:4062757184
  • ISBN-13:978-4062757188
内容紹介:
日系の学生エミを追いかけて、東京で行われた学会に出席した花袋研究家のテイブ・マッコーリー。エミの祖父の店「ラブウェイ・鶉町店」で待ち伏せするうちに、曾祖父のウメキチを介護する画家のイズミと知り合う。彼女はウメキチの体験を絵にできるのか。近代日本の百年を凝縮した、ユーモア溢れる長編小説。
ある雑誌で二十世紀のベストセラーを読み直すという企画の対談を続けています(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2003年)。そのおかげで、読み逃していた“名作”、たとえば徳冨盧花の『不如帰』や島田清次郎の『地上』などに親しめたのは幸運というべきなのですが、かつて教科書などで強制的に出合わされ、当時どこが面白いのかさっぱり理解できなかった作品を再読する機会に恵まれたのも意外な悦びを伴ったというべきで。その筆頭が田山花袋の『蒲団』です。

「何事も露骨でなければならん、何事も真相でなければならん、何事も自然でなければならん」と主張する田山花袋の実体験をもとにした自然主義文学の代表作ってな具合に、学校では教えられているわけですよね、この小説は。ところが、どっこい。ものすごく可笑しい小説なんですよー。「どこが名作?」ってくらいに爆笑できるの。家庭生活に倦(う)んでて、「ちくしょー、恋してえなあ、恋」、みたいなこと呟(つぶや)いてる中年作家・時雄のもとに若い女弟子・芳子がやってきます。で、早速ときめくんだけど、その娘は同世代の学生とフォーリン・ラブ。悶々とするオレ、恋路を邪魔したいオレ、思いどおりに事が運ばずヒステリーを起こすオレ、芳子が郷里に連れ戻されると彼女の蒲団に顔うずめて泣くオレ、そんな小説なんですから。

この時雄の本音がまた赤裸々で。〈女性には容色というものがぜひ必要である。(中略)時雄も内々胸の中で、どうせ文学をやろうというような女だから、不容色に相違ないと思った。けれどなるべくは見られるくらいの女であって欲しいと思った〉だって。散歩の途中で出会う女教師との恋愛を妄想しながら、妻が難産で死んじゃえばいいのになあ、なんてことまで考えるんだからひどい男でしょう? 最初のうちは、芳子に対して〈これからの女性は自立しなきゃいかん〉と、いかにも進歩的な男を気取っていながら、いざ彼女に恋人ができるや〈こういう自由を精神の定まらぬ女に与えて置くことはできん。監督せんければならん。保護せんけりゃならん〉とヒステリー大爆発させるのも最悪。もう、ダメダメ。何度ダメ押ししても押したりない男なのです。

で、不思議なのが、細君。亭主のこんな情けない姿を二年間も眺め続けてて、よく愛想を尽かさないものです。読めば誰だってそう感じるはず。その、おざなりにしか描かれていない妻の視点に立った「蒲団の打ち直し」なる小説内小説を挿入するなど、たくさんの企みによって、花袋のトンデモ名作を二十一世紀に蘇らせたのが、中島京子の『FUTON』なんであります。

「蒲団の打ち直し」の作者は、アメリカの片田舎の大学で日本文学を教えているバツイチ四十六歳のデイブ。彼は日系人学生のエミとラブ・アフェアを楽しんでいます。そこに留学生ユウキが登場し、デイブからエミを奪ってしまう。まず、この設定が本歌取り。さて、エミには日本でアメリカ資本のサンドイッチ・チェーン店「ラブウェイ・鶉町店」を経営している七十二歳の祖父・タツゾウと、百歳近い曾祖父・ウメキチがいます。そのウメキチの世話をしてくれているのが、画家志望のイズミ。彼女には同性の恋人がいて――。デイブ作「蒲団の打ち直し」という小説内小説は、このアメリカと日本、ふたつの物語の合間に挿入されているのです。

そうやって因果を結ぶのは空間だけにとどまりません。花袋が『蒲団』を書く前年に生まれたウメキチが経験する東京大空襲。逃げまどう最中に出会ったファム・ファタール、ツタ子との哀しい戦後の物語。猛火の中、女の手を引いて走った濃密な時間を、まだらボケになったウメキチがふっと思い返します。

振り返るとそこに蒲団を頭からかぶったあの女が立っていて、何かを言おうとしたのだったか。からからに乾ききったその蒲団に火の粉が遊ぶように降り掛かり、瞬時にしてそれが、燃えた。

女が叫び声を出したのか救いを求めて手を伸ばしたのかそれもまるで記憶には残っていないのだ。

ばらりとその蒲団が女の頭から外れて、女は男の腕に崩れるように倒れ込んだ。

突風に煽られて、蒲団は火を放ったまま、空に、舞った。

恋愛という誰もが共有できる感情を軸にして、過去と現代、この小説の中では時間もまた呼応しあいます。そして、蒲団を効果的に用いた鮮やかな描写によって、ウメキチの物語は花袋の物語とも淡い交わりを結ぶのです。戦火の中、〈いっそ死んでしまいたい、だんなさんといっしょに死ねるなら死んでしまったほうがいい〉とウメキチにすがりついたのに、戦後はGIの白太りした身体の下で〈シンジャウ、シンジャウ〉と呻(うめ)いたツタ子の面影が、花袋作品の主人公・時雄を苦しめる芳子のそれにノイジィに重なってゆく。〈おじいちゃんの中にはとんでもないことがいっぱい詰まってるわ。無機質なペースメーカーの横で過去と未来を繫ぐ記憶がどっくんどっくんいってるの。そのことをあたし、絵に描くわ〉というイズミの言葉が示すとおり、この小説の中で時間を媒介するのはウメキチなのです。

さて、別々の空間で進んでいたふたつの物語も、やがて鶉町で出合うことになります。ビザの切れたユウキに誘われて日本に帰ったエミを追い、学会出席を口実に来日を果たすデイブ。でも、ようやく探りあてたラブウェイ・鶉町店で彼が出会うのは、エミではなくイズミ。デイブはやがて〈恋のおしまい〉を思い知らされます。

あれは恋ではなかったか。中年男のさみしい生活にぽっと暖かい火が点ったような、つかの間の幸せは恋ではなかったのかと、自問する竹中時雄を、デイブはもはや他人とは思えなかった。

なぜ、恋の終わりはかくも無様なものなのか。

時雄の物語、デイブの物語、ウメキチの物語。その背後で古代ギリシャの合唱隊・コロスのように自らの物語を詠唱する女たち――時雄の妻の美穂、女弟子の芳子、エミ、ツタ子、イズミ。こうして、登場人物の物語すべてが有機的な交歓を果たし、『蒲団』の時代とウメキチが経験した戦中・戦後、現在、三つの時間も一本につながっていきます。そして、9・11同時多発テロの日をもって、それらは一旦結んだ関係性を解き、各々の物語をそれぞれに生きはじめるのです。登場する全女性の声を聞く役割を担ってきたデイブは帰国後、食事を共にした元妻に訊ねます。芳子の寝ていたフトン、時雄が顔をうずめて泣いたあのフトンは、そのあといったいどうなったんだろうか、と。ここで、物語は小説内小説「蒲団の打ち直し①」へと還っていくのです。なんと見事な構成でしょうか。

男の情けない片思いをめぐる物語であり、二十世紀日本の変容を描いた物語であり、小説の中で男たちから「オマエニハ、ワカラン」とないがしろにされる女の内面を描いた物語であり、『蒲団』を再発見・再評価した物語であり。この知的で、ユーモラスで、温かい語り口の作品が、新人作家の手になるものとは! 単なるモデル小説として片づけられ、低い評価しか与えられなかった花袋先生が小説中で発表されるデイブの講演をお読みになったら、どんなにお喜びあそばされるか。二十一世紀、蒲団は見事に打ち直されたというべきでありましょう。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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FUTON / 中島 京子
FUTON
  • 著者:中島 京子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(384ページ)
  • 発売日:2007-04-13
  • ISBN-10:4062757184
  • ISBN-13:978-4062757188
内容紹介:
日系の学生エミを追いかけて、東京で行われた学会に出席した花袋研究家のテイブ・マッコーリー。エミの祖父の店「ラブウェイ・鶉町店」で待ち伏せするうちに、曾祖父のウメキチを介護する画家のイズミと知り合う。彼女はウメキチの体験を絵にできるのか。近代日本の百年を凝縮した、ユーモア溢れる長編小説。

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初出メディア

新潮

新潮 2003年9月号

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