書評

『ベルリンの瞬間』(集英社)

  • 2020/05/07
ベルリンの瞬間 / 平出 隆
ベルリンの瞬間
  • 著者:平出 隆
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(360ページ)
  • 発売日:2002-04-26
  • ISBN-10:4087745570
  • ISBN-13:978-4087745573
内容紹介:
「壁」の崩壊から、さらに歳月は経った。"幼年"の感覚を研ぎ澄ます外来者として、死者の国の季節へとくぐり入った一年。20世紀と21世紀のふたつの世紀転換期を透明な遊歩でつなぐ詩人の、濃密な新ベルリン紀行。
狭いニッポンそんなに急いでどこへ行く、なんて交通標語がありましたけど、これって、今や言論の場でこそ唱えられていい標語かもしれないと思いますよ、わたしは。なんか、結論に飛びつきすぎ。答えを性急に求めすぎ。落ち着きなさすぎ。

ここ二十年くらいでしょうか、こうした風潮が顕著になってきたのは。問いかけがあって、その隣にもう答えがある。極端にいえばそういうせっかちなミニマムサイズの文章が、もしくは短兵急(たんぺいきゅう)に問題の核心を突く文章が、重宝がられる傾向にあると思ってるんですけど、間違っておりましょうか。で、これまた大まかな分け方で恐縮なんですが、作家には時代の気分を増幅させるタイプと、抵抗する炭坑のカナリア型があるように思われるわけです。前者で目立つ作家といえば村上龍氏でしょうね。援助交際や引きこもりからサッカー、さては経済不振まで、嗅覚の鋭いことさかりのついた犬のごとし、筆の勃つこと十代の男子のごとし。お見事な処世並びに才能でございます。

でも、わたしが注目しているのは後者のタイプの作家なのです。素材やテーマに一直線には斬りこんでいかない。むしろ迂回して迂回して、興味をひく虫か何かを見つけた時の仔猫のような身振りで時折跳び退(さ)ったり、近づいたり――。そういう悠長な目と言葉と気持ちを持った作家に、今心惹かれるのです。たとえば平出隆氏。

一九九八年五月、平出氏は大学のサバティカル・イヤーを利用してベルリンへ渡ります。妻と猫のnと共に。そこで過ごした一年間の日々を綴った、紀行文ともエッセイとも小説とも判別しがたい散文集が『ベルリンの瞬間』。猫と住める家を探したり銀行の口座を開いたりといった日常の手続きから始まったベルリン生活は、ドイツ語教室に通い、家主夫妻のパーティに招かれ、架空の国の切手を描いた画家ドナルド・エヴァンズの足跡を辿る旅(『葉書でドナルド・エヴァンズに』)の途上で心通わせた知己と再会し、美術館をはじめとする施設を訪れ、大学で週一齣の講義を行いといった様々なシーンを加えていきます。

「日本にいながら、なぜ自分がこの土地において、この国語において、ある種致命的な欠落を抱えつづけるか、ということを、ぼくは考えないでいられなくなっていた。」という一文を、つっかえるような読点と共に記さずにいられない作家は、「持て余すほどに巨き」くて、「歴史のあらゆる断絶が、あらゆる角度から襲いなおしてきて、感情の襞(ひだ)を逆立てるよう」な都市ベルリンを精力的に、しかし、つつましやかな足取りで歩きます。早々に結論づける安易な句点を許さない、自問を強いるがごとき独特の読点を打ちながら。

「すでに幾人かの他者の精神的な仕事が、ぼくの中に、ベルリンのイメージの種子を散らしていた。」と書く平出氏にとって、ベルリンへと誘った先達はカフカとベンヤミンでした。だから、作家はベルリンのみならず、プラハへ、ウィーンへ、アウシュヴィッツへ、パリへと足をのばします。その文章を引用し、今一度深く味わいながら、二人の巨きな先達がヨーロッパに打った読点を踏むのです。

平出氏はそうやってたくさんの読点を踏み、自ら打ちながらも、しかし、大変な繊細さをもって句点を避けようとしているかのように、わたしには読めます。大勢の先達の思考や行動を自らのそれに重ねるように、ベルリンという謎に近づいては遠ざかりながら思索を深めるこの書物が持つ時空間の広がりに感嘆しながら、その奥行きの深さにも共感を覚えずにはいられません。故郷で病に臥している父親や、詩作上の父である田村隆一氏、その作品を通じて近しい感情を抱くに至った詩人や作家や画家など、今此処(ここ)にはいない誰かに想いを飛ばす。そんな遠くを思いやる視線こそが、この美しい散文集に奥行きを与えているのです。「同じ場所が、そこにそのままでありつづけながら、まったく別の場所になる」瞬間を作り出しているのです。それこそが平出氏にとっての“ベルリンの瞬間”であり、わたしというベルリンを知らない読者に彼の地の「イメージの種子」が植えつけられた瞬間でもあるのです。そう句点を打たずにはいられない、自分の凡庸さがつくづく悲しいのですが。

なぜなら、この本に答えや結論を求めるべきではないからです。最も切実なテーマというものは、おそらくその周囲を果てしなく迂回し、ぎりぎりまで近づきながらも到達し得ないものだからです。ベルリンでの一年間が平出氏にとって切実なテーマを伴う経験である限り、読者も迂回し、近づいては跳び退る作家の精神の働きを共に経験し直すほかないのです。そして、そのひそやかな追走こそが、読書という行為の歓びの核心なのではないか。短兵急を求めるときだからこそ、深く得心する次第です。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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ベルリンの瞬間 / 平出 隆
ベルリンの瞬間
  • 著者:平出 隆
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(360ページ)
  • 発売日:2002-04-26
  • ISBN-10:4087745570
  • ISBN-13:978-4087745573
内容紹介:
「壁」の崩壊から、さらに歳月は経った。"幼年"の感覚を研ぎ澄ます外来者として、死者の国の季節へとくぐり入った一年。20世紀と21世紀のふたつの世紀転換期を透明な遊歩でつなぐ詩人の、濃密な新ベルリン紀行。

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レコレコ(終刊) 2002年8-9月号

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