書評
『ライカ同盟』(講談社)
天体望遠鏡、顕微鏡、そしてカメラ。子どもには、こうした精密機器を通して世界に触れたいと熱望する時期がある。
今でも忘れない。買ってもらった屈折式の天体望遠鏡で初めて月の表面を見た日のことは。手を伸ばせば触れられるんじゃないかと思うほど、月面は生々しくわたしの目の前に飛び込んできたのである。行動範囲の狭い小学生が初めて実感する世界と宇宙の広大さであった。あるいはまた、理科室の顕微鏡で初めてゾウリムシを見たときの驚き。ミクロの世界の深淵を思い知ったっけ。
そして、ついに一眼レフのカメラを買ってもらった日の喜びといったらもう! 軍艦部にあるシャッタースピードの目盛りをわけもなくいじったり、カシャッカシャッと何度もシャッター音を確かめたり、コンパクトカメラとは段違いのその重みを左手で確かめてはホウッと感嘆の息をついたり、興奮はおさまることがなかった。翌日からは早速何でもかんでも撮りまくり、やがて友人の暗室で焼き付けをする喜びも覚え、しばらくわたしは、その一眼レフの虜になったものである。
そんな風に機械を通して世界や宇宙と親しむのは倒錯的(おたく)という見方をする人もいるが、はたしてそうなのだろうか。それはモノを本気で愛したことのない人の偏見なのではあるまいか。ということを、ディレッタントの視線と味わい深い現代の名文で教えてくれるのが、尾辻克彦の『ライカ同盟』なのである。
これは中古カメラ病にかかり、ついには悪名高きライカウイルスにまで感染してしまった著者が、中古カメラの病膏盲(やまいこうもう)に入る有り様を描いたという、エッセイとも私小説ともつかない体裁の作品集だ。
クレジットカードという「麻酔」を使って、二十七万円もする中古のステレオカメラをつい買ってしまうという「手術」をして、当面の禁断症状の治療をする尾辻さん。が、その姿は本誌「PASO」の読者であるパソコンユーザーにとって他人事ではないだろう。新製品は可愛くないからと好んで古い機種をコレクションする熱狂的なマックユーザーもいるっていうしね。
著者自身認めているように、中古カメラおたくは散財する。パソコンユーザーもまた散財する。だけど尾辻さんのように、精密機器を通してこれだけ童心に帰ることができ、世界と幸福な交歓ができるのなら散財もまたよし、とわたしには感じられるのだ。ああ、なんだか猛烈に中古カメラが欲しくなってしまった。(編註▼本書の著者名は、一九九四年に講談社から刊行された単行本は尾辻克彦、一九九九年に筑摩書房から刊行された文庫は赤瀬川原平です)
【文庫版】
今でも忘れない。買ってもらった屈折式の天体望遠鏡で初めて月の表面を見た日のことは。手を伸ばせば触れられるんじゃないかと思うほど、月面は生々しくわたしの目の前に飛び込んできたのである。行動範囲の狭い小学生が初めて実感する世界と宇宙の広大さであった。あるいはまた、理科室の顕微鏡で初めてゾウリムシを見たときの驚き。ミクロの世界の深淵を思い知ったっけ。
そして、ついに一眼レフのカメラを買ってもらった日の喜びといったらもう! 軍艦部にあるシャッタースピードの目盛りをわけもなくいじったり、カシャッカシャッと何度もシャッター音を確かめたり、コンパクトカメラとは段違いのその重みを左手で確かめてはホウッと感嘆の息をついたり、興奮はおさまることがなかった。翌日からは早速何でもかんでも撮りまくり、やがて友人の暗室で焼き付けをする喜びも覚え、しばらくわたしは、その一眼レフの虜になったものである。
そんな風に機械を通して世界や宇宙と親しむのは倒錯的(おたく)という見方をする人もいるが、はたしてそうなのだろうか。それはモノを本気で愛したことのない人の偏見なのではあるまいか。ということを、ディレッタントの視線と味わい深い現代の名文で教えてくれるのが、尾辻克彦の『ライカ同盟』なのである。
これは中古カメラ病にかかり、ついには悪名高きライカウイルスにまで感染してしまった著者が、中古カメラの病膏盲(やまいこうもう)に入る有り様を描いたという、エッセイとも私小説ともつかない体裁の作品集だ。
クレジットカードという「麻酔」を使って、二十七万円もする中古のステレオカメラをつい買ってしまうという「手術」をして、当面の禁断症状の治療をする尾辻さん。が、その姿は本誌「PASO」の読者であるパソコンユーザーにとって他人事ではないだろう。新製品は可愛くないからと好んで古い機種をコレクションする熱狂的なマックユーザーもいるっていうしね。
著者自身認めているように、中古カメラおたくは散財する。パソコンユーザーもまた散財する。だけど尾辻さんのように、精密機器を通してこれだけ童心に帰ることができ、世界と幸福な交歓ができるのなら散財もまたよし、とわたしには感じられるのだ。ああ、なんだか猛烈に中古カメラが欲しくなってしまった。(編註▼本書の著者名は、一九九四年に講談社から刊行された単行本は尾辻克彦、一九九九年に筑摩書房から刊行された文庫は赤瀬川原平です)
【文庫版】
初出メディア

PASO(終刊) 1995年5月号
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