書評
『冬の日誌』(新潮社)
生の痕跡から掘り起こす記憶
現代アメリカ文学の重要な作家ポール・オースターによる回想録的作品が二冊、続けて刊行された。『冬の日誌』は〈肉体と感覚〉をめぐる視点、『内面からの報告書』は〈精神〉をめぐる視点から描かれる。肉体と精神、といえば、デカルトの心身二元論以降さまざまなかたちで試みられてきた超克が想起されるが、著者は読書遍歴の記述の中でとりわけメルロ=ポンティを強調する。「最終的に一番しっくり来たのはメルロ=ポンティの現象学だった。具象化された自己をめぐる彼の洞察が、いまでも君には一番納得が行く」と。
身体を基底とし、身体から影響を受けて成り立つ精神、というイメージを探ったメルロ=ポンティ。「君」という二人称が出てくるけれど、二冊とも、著者が自分に対し「君」と呼びかける手法で書かれている。
子どものころの怪我の跡。身近な人との別れや死によって混乱した心の状態が、体に及ぼした影響の記憶。個人の生の道筋に残るいくつもの痕跡。それらが、地層のように掘り出され、丹念に描かれていく。
五歳の少年が感じた性的な目覚めの記憶。子どもたちの野球に参加した母が、三振に終わるだろうとの予想を裏切り、レフトのはるか頭上を越えるホームランを打ったこと。パリで出会った娼婦がベッドでボードレールの詩を暗唱して聞かせたときの驚きと幸福感。魚の骨が喉に引っかかり、ありとあらゆる大きさと形のピンセットを揃えた医師の手でやっと抜いてもらったこと。不調の時期のある日、ダンスを観ているうちに何かが「開きはじめ」、翌日、遠ざかっていた執筆を再開できたこと。身体の記憶が言葉と出会って、次々と、世界への視点を切り拓いていく。
精神の遍歴を探る『内面からの報告書』では、『宝島』の著者・スティーヴンソンが書いた詩の本を読んで感動した幼い日の記憶が綴られる。「あのとき君は、文学を創る営みの隠れた歯車を、人が自分以外の心の中に跳び込むことを可能にする神秘のプロセスを、初めて垣間見たのだと」。ユダヤ人であることを自覚した経験や、子どものころに観た映画のこと、元妻リディア・デイヴィス宛てに昔書いた手紙の抜粋とコメント、さらに写真や図版なども含め、四つの章から成る。
著者はかつて、ラジオ番組の聴取者から数多くの体験談を集めて『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』を作った。断片を集めた先にどんな展望が開けるか。その粘りのある視点は、自己の記憶を掘り起こし記述する試みにおいても、類い稀なる力を発揮している。
朝日新聞 2017年04月30日
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