書評

『オリエント急行戦線異状なし』(DHC)

  • 2020/07/31
オリエント急行戦線異状なし / マグナス ミルズ
オリエント急行戦線異状なし
  • 著者:マグナス ミルズ
  • 翻訳:風間 賢二
  • 出版社:DHC
  • 装丁:単行本(315ページ)
  • 発売日:2003-05-01
  • ISBN-10:488724309X
  • ISBN-13:978-4887243095
内容紹介:
休暇で湖畔のキャンプ場にやってきた青年。キャンプ場の使用料とひきかえにペンキ塗りを引き受ける。そろそろアジア旅行に出発しようと思いつつも、なぜか次々に新たな仕事を引き受けてしまう… もっと読む
休暇で湖畔のキャンプ場にやってきた青年。キャンプ場の使用料とひきかえにペンキ塗りを引き受ける。そろそろアジア旅行に出発しようと思いつつも、なぜか次々に新たな仕事を引き受けてしまう。そうこうするうちにパブ対抗のダーツ選手に選ばれたり、気になる女の子ができたりと、村の生活になじみはじめたある日、予想外の出来事に巻き込まれ…。強持てする地主、大人びた少女、ボール紙製の王冠をかぶりつづける男、ダーツの腕前が抜群なバーテンダー、よそ者に冷たい商店主、仕事中毒の老人、いつも遅れる牛乳配達人といった個性的な人々がつどう村の日常に入りこんだ青年が、その異質な空気に巻き込まれていく。前作でトマス・ピンチョンの絶賛を受けた気鋭の著者によるブラックな笑いがこみあげる異色作。
フェンス職人トリオが、農場に最新式フェンスを張りに行く→昼はのらくら働き、夜はパブでビールを飲む→何かの拍子で依頼主が死ぬ→「ま、いいか」と埋めてしまう→また別の農場に行く→昼は……。この繰り返しが描かれているだけなのに麻薬的なまでに面白いのが、三年前に邦訳されたマグナス・ミルズの『フェンス』だった。単語やフレーズ、シチュエーションを繰り返すことで、そこに描かれている感情や行為を強調し、「文章には変化を持たせるべきで、同じことを二度語る時は別の言い方にせよ」といった、いわゆる学校の作文で習う美文の法則を無視することで、異化やパロディを生じさせる働きもある“反復”。その蠱惑(こわく)的なテクニックで、読者をイカせてくれる小説だったのである。

そんな風変わりな傑作でデビューを果たしたミルズの長編二作目が、この『オリエント急行戦線異状なし』だ。アガサ・クリスティのミステリーと、エリッヒ・マリア・レマルクの反戦小説のタイトルを合体させた、題名からして人を喰った作り。内容はといえば、これがまた、何といおうか、いつかどこかで食べたことがある味で、その料理名も思い出せるんだけど、「××に似てる」と口に出した途端に「でも、なんか違う」と違和感がわき上がってくる、そんな奇妙な味に仕上がっているのだ。

物語の舞台はイギリスの湖畔地帯で、避暑地として人気のある村。夏も終わりにさしかかり、キャンプ地からは一斉にバカンス客が帰ってしまっている。ここにあと一週間ほど滞在した後、インドをはじめとする東洋の旅へ出るつもりの、語り手の「ぼく」。ところが、日中は自然の景観を楽しみ、夜はパブで地ビールを飲むぐらいしかすることがなくて、少々退屈気味。そんなある日、キャンプ地の所有者パーカー氏から、これから一週間の滞在費をチャラにするという条件で、ゲートのペンキ塗りを頼まれる。朝飯前だとばかりに引き受けた「ぼく」だったのだが――。

終わらない作業を延々繰り返させられた『フェンス』の職人トリオ同様、この小説の語り手もまた、「なにをするにも、だれかに知られてしまう」田舎の日常という終わりなき悪夢の中に取り込まれていく。次から次へと片手間仕事を頼んでくるパーカー氏。その仕事内容に応じて、キャンプ地からトレーラーハウス、使用人用の小屋へとグレードアップされていく「ぼく」の居場所。顔なじみとなったパブではダーツチームのレギュラーメンバーにまで加えられ、旅立つことが一向にできないでいるというのに、我らがお人好しの語り手ときたら厭(いや)な顔をするどころか、どんどんジモティ(地元の住民)化していってしまうのだ。

柔らかな物腰の中にキレると手がつけられなさそうな不穏な空気をまとうパーカー氏、いつもボール紙の王冠をかぶっているブライアン、時間に遅れてばかりの牛乳配達人ディーキン、よそ者には心を開かない雑貨店主のホッジ、ワーカホリックの頑固な老人ピックサル氏など、脇を固めるジモティサイドは個性的な面々ばかり。二十世紀末の(本書は一九九九年刊行)カフカ村、そんな感じなんである。で、そういったジモティたちが、何だかんだと理由をつけては「ぼく」を村に引きとめようとするのだ。これは相当に気味の悪い状況なんではあるまいか。でも、もっと気味が悪いのは、パーカー氏の頼み事に唯々諾々と従って「いつのまにやら彼の召使いになっていること」を自覚しながら、それを不快とも思わずにいる語り手の精神状態だろう。

都市生活者よりも濃密、かつ、蜘蛛の巣のごとき緻密な人間関係を内部に作り上げていきがちな田舎の人間。彼らは巣に“外部”という破れ目ができるのをことのほか嫌う。東洋という外の世界に憧れていたはずの「ぼく」が、その対極にある閉鎖的な村社会に、蜘蛛に捕食される虫ケラのごとく取り込まれていく、しかも嬉々として取り込まれていく様は、相当に気味が悪いんである。ところが、ミルズはその不気味な物語を、ごくごく気軽でさりげない、ユーモアすら込めた文体でさらりと活写していくのだ。それは、実際には砲弾や毒ガス、疫病によって、地獄の苦しみが戦場を覆う中にあっても「西部戦線異状なし」と報告された戦争の欺瞞を、やはり淡々とした筆致で告発したレマルクの小説を思い起こさせる。どう考えても異常な事態が「異状なし」と伝えられる不条理。内容だけではなく、それを描くミルズの創作作法も含めて不条理だという、非常に剣呑(けんのん)な小説なのである。そして、もちろん、あらゆる優れた不条理小説がコミック・ノベルの貌(かお)を持つように、かなり笑える作品にもなっているのだ。

「いつのまにか人のいいなり」とは言い得て妙な帯の惹句。読んでいるうち、いつのまにか悪夢の巣に絡め取られてしまう読者もまた、ミルズのいいなり。でも、この作家の「召使い」にならなってもいいかもね。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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オリエント急行戦線異状なし / マグナス ミルズ
オリエント急行戦線異状なし
  • 著者:マグナス ミルズ
  • 翻訳:風間 賢二
  • 出版社:DHC
  • 装丁:単行本(315ページ)
  • 発売日:2003-05-01
  • ISBN-10:488724309X
  • ISBN-13:978-4887243095
内容紹介:
休暇で湖畔のキャンプ場にやってきた青年。キャンプ場の使用料とひきかえにペンキ塗りを引き受ける。そろそろアジア旅行に出発しようと思いつつも、なぜか次々に新たな仕事を引き受けてしまう… もっと読む
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初出メディア

Invitation(終刊)

Invitation(終刊) 2003年8月号

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