解説
『朝日美術館 幕末・明治初期の絵画』(朝日新聞社)
絵師たちのいた町
ジャーナリスト宮武外骨は東京暮らしの方が長かった人だが、大阪時代の「滑稽新聞」では大阪の浮世絵師の墓を探訪して記事を書いた。そのひそみにならえば、私は幕末・明治の画家については門外の者ではあるが、『幕末・明治初期の絵画』(朝日新聞社)に収録されている画家のリストにはかなり親しんだ名が多い。この中には、下谷、本郷という私の町に住んだか、描いたか、ここに眠っている人が多いからである。私はよく彼らの墓参りをする。河鍋暁斎(かわなべぎょうさい) お茶の水火消屋敷に住む。墓は谷中瑞輪寺中正行院。
谷文晁(たにぶんちょう) 上野の山に文晁の碑がある。
菊池容斎(きくちようさい) 谷中墓地に墓がある。
徳川慶喜 慶応四年二月より寛永寺大慈院に謹慎、墓は谷中墓地にある。
司馬江漢(しばこうかん) 不忍池を描いた有名な銅版画がある。墓は巣鴨慈眼寺。
小田野直武(おだのなおたけ) まさに不忍池図が本書に掲載。
柴田是真(しばたぜしん)、高橋由一(たかはしゆいち) 谷中全生庵の三遊亭円朝の幽霊画コレクションの中に作品がある。
酒井抱一(さかいほういつ) 根岸在住の有名な文人であった。
狩野芳崖(かのうほうがい) 本郷に住み、美術学校教授に任命されながら開校直前に亡くなった。墓は谷中長安寺。
月岡芳年(つきおかよしとし)などは大変、近しい人のような気がする。本名を米次郎といい、一勇斎国芳の門人である。彼は上野彰義隊戦争の血みどろ絵を多く描いていて、ときに谷中の寺や旧家で、それらの作品を見せて頂く。こわくってその日は何となく眠れない。芳年自身、根津宮永町や権現裏に住み、また根津遊廓大松葉のお職、幻太夫に通いつめていた。
この幻太夫は風変わりな女で、うちかけの背一面に阿弥陀仏を錦糸で縫いつぶす。裾の方には天女が紫雲に乗る模様、中着は野晒しのどくろと卒塔婆、下着は流れに蓮華の染め抜きといういで立ち。床には達磨大師の幅をかけ、違い棚には仏像三体を祀るという奇抜さで評判をとった。少し仏臭い器物を、骨董屋などは、幻好みだな、などといったものだそうで、彼女のことは国周(くにちか)や清親も描いたが、芳年もその湯上がり姿を絵にしているという。知っているのは挿話だけで、絵は見たことがない。
そういえば清親の娘小林哥津も、この幻太夫のことを書いている。ある日哥津は『美人伝』執筆中の長谷川時雨から、幻太夫の件で呼び出しを受ける。佃島の長谷川邸に渡しで着いてみると、清親の落款のある木版画を見せられた。
不思議な事にその女は黒髪は、やや長くはあるけど肩にきりさげて、白地のうちかけに、背景にはお寺の様な立派な仏壇仏具を描いてある。
これが幻太夫でなくて誰であろう。
哥津は幻太夫に何の覚えもなかったが、ふと五つ六つの頃、母に手をひかれて根津神社のそばの広い屋敷につれていかれたことを思い出す。大人が話しているうちに、家で迷子になり泣き出したというのだ。そこは大八幡楼の跡が紫明館という旅館になったところで、母と話していた黒い羽織の人はそこの主人で清親の絵の注文主だったというのである。おそらく大八幡の楼主渡坂清吉であると私は思う。絵師のパトロンは遊廓の主人だった。
芳年に話を戻すと、彼は江戸っ子で口が悪く、人前で弟子を叱り、酒癖も悪かった、と伊藤晴雨が紹介している(『文京絵物語』)。
あるとき、銀座の覗きからくりで、河鍋暁斎、小林永濯、月岡芳年の三大画家に「佐倉宗五郎一代記」を描かせようと頼んだ興行主があった。まさに木下直之氏のいう「美術という見世物」である。芳年には「宗五郎夫婦が礫(はりつけ)になるところをできるだけ凄惨に」という注文だった。下図を何回やっても思うように気分が出ない。弟子の中沢年章が痩せていてモデルにおあつらえむきだというので、画室の柱へ礫柱のように横木を打ちつけ、褌一つの素ッ裸の年章を荒縄で本格的に縛りあげて写生しているうちに夕方になった。
明治の根津の夕べといえば、藪蚊(やぶか)の柱がたつ。裸の年章は蚊に責められて髪をふり乱しボロボロ泣いて物凄い。それを芳年は写した。三昧境である。そこに芝の絵草子屋、福田某が入ってきて、また癇癪持ちの先生に弟子が粗相をして仕置きされていると早呑み込みをした。「先生、ここは一つ、私に免じて許してやって下さい」
絵三昧を破られて芳年はカッときた。「いやコイツはいつもオレを馬鹿にしやがって陰口ばかりいいやがるから、今日は思う存分懲(こ)らしめてやる。オヽ丁度いい処へ来た。一杯やろう。ま、ゆっくりして行きねえ」
芳年は鰻を取って悠々と酒を飲みはじめる。年章はいい面の皮で大声で泣き出してしまい、その表情が宗五郎の断末魔の図となった。
この話には落ちがあって、それを晴雨が芥川龍之介に話したのが、もしかすると「地獄変」になったのかもしれないというのである。それを責め絵で名をなした晴雨が伝えているというのも二重に面白い。「其時分の画家は職人扱いであったからどんな低級なものでも全力を尽くした」と晴雨は書いている。芳年の弟子が水野年方、その弟子が鏑木清方、二人の墓も谷中墓地にある。
よほど根津には絵師が似合う。三遊亭円朝の「蝦夷錦恨舞衣(名人くらべ)」はオペラでも有名な『トスカ』の翻案物で大塩平八郎の乱の時代の話だが、絵師狩野毱信はうしろは権現の森という根津の清水に家を構えていることになっている。
本書に登場するもう一人の絵師、渓斎池田英泉も根津の廓に関係が深い。時代は溯るが、英泉は松栄楼のために、切子絹張行灯にみごとな草花模様を描き、その画料が一個十両もしたという。また天保七年の火災後、英泉は根津で若竹屋という遊女屋を経営し、淫斎英泉の名で春画に力を注いだ(花咲一男『江戸かわや絵図』)。
その根津の廓は岡場所つまり私娼窟であったが、上野彰義隊戦争の兵火にかかって火の消えたようになった。しかし明治になるとまたぞろ息を吹き返し、こんどは公許の根津遊廓として賑わう。このようなことを見ても江戸(封建時代)と明治(近代)は連続しており、絵師たちの暮らしぶりも物の考え方もそう変わらなかったのではなかったか。
小林清親という人は弘化四(一八四七)年生まれで大正四(一九一五)年に亡くなっているから、まことに幕末の動乱そして明治の文明開化ともによく見たといえるだろう。安政の大地震、コレラの流行を見、家督をついで将軍家茂の上洛に従い、上野戦争を偵察し、静岡に移住、維新後河鍋暁斎とワーグマン両方を師とし、内国勧業博覧会に出品し、変わりゆく東京の風景を描いた。
大久保利通の、実によく似たポートレートを描いたかと思うと、自由民権諸事件の一つである福島事件の被告たちを『天福六家撰』として版行し発売禁止になる。天福には顚覆をかけた。この六家撰のモデル田母野秀顕や花香恭次郎も谷中墓地に眠る人で、このブロマイドで一躍人気が高まった。しかし版元の原胤昭は獄に投ぜられた。原は幕府の与力で、『戊辰物語』をまとめた東京日日新聞の子母沢寛に多くの題材を提供している。
とこのように芋づる式に幕末・明治はたぐりよせられ、人から人のネットワークも限りなく広がっていくのだが、あらためて下谷、本郷という土地が絵師にゆかりが深いと思わざるを得ない。どちらかというと徳川びいきの町人、旧幕臣が多く住んでいたところである。しかし同時に明治十四年の内国勧業博覧会から始まって、新しい文物はいち早く上野の山で披露された。たとえば乗物一つとっても、電汽車、鉄道馬車、グライダー、飛行機、ウォーターシュート、ロープウェイなど、ほとんどが上野の山や不忍池で初目見得している。絵師たちがこうしたことに敏感でないはずはない。
たとえば上野戦争が行われた直後の明治二年、川上冬崖(かわかみとうがい)はほど近い下谷御徒町一丁目に洋画研究所・聴香読画館を設立した。蘭学を学び、蕃書調所の絵図調出役になったことから洋画研究に乗り出す。岩絵の具に油をまぜ、カンヴァスや筆も工夫を重ねて自作したという。明治十四年、冤罪を蒙り、痛憤のあまり自刃。この死に方は「近代的」ではないが、ともかく美術史の近代の幕を開けた人だろう。その弟子が高橋由一、そして小山正太郎。
一方、明治六年には、やはり上野不忍池の畔に横山松三郎が洋画塾・天真道場を開いている。彼はエトロフ島の生まれで函館でレーマンに油絵を学んだ。池に向かって精一杯に突き出したバルコニーや、天窓のあるアトリエの写真が残っているが、彼は黎明期の写真家としても著名で、写真を薄くはがして油絵の具で彩色するという写真絵画の新技法をあみ出した。
同じ明治六~七年に、五姓田芳柳が浅草奥山に油絵展観の小屋掛け興行をしているし(もっとも油絵といっても寒冷紗に泥絵の具で描き、ニスを塗って油絵に見せかけたものらしい)、その弟子安藤弥三郎は明治八年、下谷広小路に洋画の陳列店を開業している。
明治初年、不忍池をへそとして、美術史が作られていくような感じを受ける。不忍池の弁天島にあった三河屋という酒亭に文人や画家が集まっていた。下谷摩利支天(したやまりしてん)横丁には女流画家・奥原晴湖が有名だった。近所の大沼沈山(おおぬまちんざん)、関雪江(せきせっこう)、福島柳圃(ふくしまりゅうほ)、鈴木鵞湖(すずきがこ)ら漢詩人と交わり文人画の流行をつくっている。
そして明治十二年、弁天島の現在もある生池院を会場に行われた美術展覧会が「竜池会」である。現在のように壁に展示して公開する美術展ではなく、書画骨董を持ちよって見せあいっこするものだった。
明治十三年、内務省博物局の主管のもとに「観古美術会」が上野公園で開かれる。これが官展の第一歩である。第三回は浅草本願寺で行われ、明治天皇も行幸した。そしてアーネスト・C・フェノロサと岡倉天心は明治二十二年、東京美術学校を上野の山に旗揚げする。
どうやら土地はその持つ性格を容易に変えないらしい。いまも上野の山は東京国立博物館、国立西洋美術館、東京芸術大学、国立文化財研究所をはじめ、美術の宝庫であり、そこからつづく谷中には、在野の美術団体、日本美術院、太平洋洋画研究所がある。そして上野桜木、谷中、根津あたりにはいまも画家や彫刻家が多い。
絵師のいる町はよく描かれる。私たちは不忍池を、上野の山を、太田ケ原を諏方台を田端の崖を描いたさまざまな絵師の絵を時代ごとに持っている。それを多とするが、あえて一人をあげれば、私が好きなのは清親だ。江戸の町をあれほど美しく深く描いた清親の絵にガス灯が灯り、電線がひかれ、人力車が走ってゆくとき、私は江戸というものにふんぎりをつけた彼の心中を思ってせつなくなる。
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