書評

『カフェ・シェヘラザード』(共和国)

  • 2020/11/22
カフェ・シェヘラザード / アーノルド・ゼイブル
カフェ・シェヘラザード
  • 著者:アーノルド・ゼイブル
  • 翻訳:菅野 賢治
  • 出版社:共和国
  • 装丁:ハードカバー(317ページ)
  • 発売日:2020-08-12
  • ISBN-10:4907986726
  • ISBN-13:978-4907986728
内容紹介:
ナチスに蹂躙された故国ポーランドを脱し、神戸や上海を経由してオーストラリアにたどりついた難民たちの〈声〉を描くフィクション。

虐殺を生き延びた運命が集う

メルボルン郊外に「シェヘラザード」という名前のカフェがある。そこに集うユダヤ移民の古老たちが、いかに壮絶な経験を経て戦争と大虐殺の時代を生き延びたか、物語を繰り出し続ける。「語ることが、き残ったことの証でもあるかのように」。

実際、「この世にまだ残る語り部たち」の話には終わりがない。ここは世界中から流れ着いた人々の多様な背景を反映して、「言語のバベルの塔」となっている。カフェを切り盛りするマーシャはポーランド出身のユダヤ人で、自ら「言語から言語へ自在に渡り歩」いて接客する。「イディッシュ語は、多少、お話しになる? えっ、イディッシュ語が母語(マメ・ロシェン)ですって? ロシア語もちょっと? もしかしたらポーランド語も? メインディッシュは何になさいます?」。いや、東欧ユダヤ人の母語であるイディッシュ語こそが、この小説のメインディッシュであると言ってもいい。それは「荒れ狂う嵐を突き、無謀に飛び続ける」言語だ。

本書は、このような多言語の物語の渦の中に身を置いたジャーナリストが話を聞き取ってまとめたという設定になっている。小説ではあるが、ここで語られる歴史的事件は「可能なかぎりの検証を経て」おり、このカフェも実在した。しかし、著者自身はあとがきで、これは歴史書ではなく、「ものを語る力に捧げられた頌歌(しょうか)」だと主張する。

では、ここではどんなことが物語られているのか? 一九三九年九月、ドイツとソ連がポーランドに侵攻すると、大量のユダヤ人が難民となってリトアニアのヴィルニュスに逃れ、この地の伝説的なカフェ「ヴォルフケス」でザルマン、ヨセル、ライゼルの三人が出会う。ザルマンとヨセルは杉原ビザのおかげでシベリアを横断して日本に流れ着いたのち、日本軍政下の上海へ。ライゼルはソ連で囚人となり、極寒のシベリアで強制労働。マーシャはソ連の中央アジアに逃れて生き延びる。もっとも苛酷な運命をたどったのが、後にマーシャとメルボルンでカフェを開くことになるエイヴラムである。彼は、リトアニアにとどまり、パルチザンとして戦い続け、吹き荒れるユダヤ人大量虐殺の嵐を奇跡的に生き延びたのだ。かくして地上の様々な場所で同時並行的に進んでいったトラウマ的経験の「多方向的記憶」がポリフォニックに物語られた後、難民たちの旅路は最後にオーストラリアで交わるのである。

苦難と残虐ばかりではない。稀にだが、恩寵のような瞬間も与えられる。シベリアでの強制労働のさなか、雪に包まれた集落の息をのむような美しさ。そして、マーシャとエイヴラムの二人が、戦後、レマルクの小説『凱旋門』で有名になった、パリのカフェ・シェヘラザード(こちらが元祖だ)で再会を祝し、結ばれるというロマンスには心を打たれる。この二人が後にメルボルンにカフェを開くことにしたとき、店名はシェヘラザード以外にはあり得なかったのだ。

オーストラリアの英語作家ゼイブルは、日本では初紹介となる。知られざるこの傑作を掘り出した訳者の菅野氏もまた、ユダヤ難民の運命を粘り強く実証的に追い続ける気鋭の研究者である。杉原ビザの「伝説」に一石を投ずるような画期的調査を進めているところと聞く。
カフェ・シェヘラザード / アーノルド・ゼイブル
カフェ・シェヘラザード
  • 著者:アーノルド・ゼイブル
  • 翻訳:菅野 賢治
  • 出版社:共和国
  • 装丁:ハードカバー(317ページ)
  • 発売日:2020-08-12
  • ISBN-10:4907986726
  • ISBN-13:978-4907986728
内容紹介:
ナチスに蹂躙された故国ポーランドを脱し、神戸や上海を経由してオーストラリアにたどりついた難民たちの〈声〉を描くフィクション。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2020年10月3日

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