書評

『収容所のプルースト』(共和国)

  • 2018/03/04
収容所のプルースト  / ジョゼフ・チャプスキ
収容所のプルースト
  • 著者:ジョゼフ・チャプスキ
  • 翻訳:岩津 航
  • 出版社:共和国
  • 装丁:単行本(193ページ)
  • 発売日:2018-01-27
  • ISBN-10:4907986424
  • ISBN-13:978-4907986421
内容紹介:
1939年、「カティンの森」での大虐殺の前夜。ソ連の強制収容所で開催されたプルースト『失われた時を求めて』講義のすべて。

精神の荒廃から自分を守る

プルーストを読むとは読書の意味を絶えず私たちに問いかけることにほかならない

最初に個人的回想に筆を割くのをお許し頂きたい。一九八七年に刊行された本書の原書の初版をパリの書店で買ったのが一九九一年。だが迂闊にも当時はこの本の重要さに気がつかなかった。それが魂が震えるほどに感動して読み終えたのは、二〇一二年、パリでポーランド出身のさる大使夫人に勧められて、二〇一一年の増補改訂版を入手したときだった。さっそく当時新聞に連載していたエッセイに書き、拙訳『失われた時を求めて』第三巻の解説でも九ページにわたって紹介した。プルーストに正面から向かっているときだからこそ、著者チャプスキの心境がひしひしと胸奥に迫ってきたのだろうと思う。

本書はポーランドの画家・批評家ジョゼフ(ポーランド語ではユゼフ)・チャプスキ(一八九六~一九九三年)によってフランス語で書かれたプルースト講義ノート、直訳すれば『精神の荒廃に抗するプルースト』とでもなる書物の待望の邦訳である。それにしてもなぜ「収容所の」プルースト講義なのか。

チャプスキが最初にパリに渡ったのは一九二四年。プルーストが他界して一年半あまり経った頃で、『失われた時を求めて』はまだ最終巻まで出ていなかった。たまたま手にしたある巻は社交界の描写に何百ページも費やしていて、若きチャプスキをうんざりさせるだけだった。しかしその二年後、チフスの療養で入院しているときに改めて読み始めると、今度は打って変わってプルーストの文体の魅力、観察と洞察の鋭さ、真実を求める精神の姿勢、人物造型の確かさ、藝術に対する深い理解、新しい詩的世界、豊かな文学形式に心打たれて何度も読み返すことになった。

それから十年以上が経った一九三九年九月一日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。ポーランド軍将校だったチャプスキは間もなくソビエト軍の捕虜となった。一九四〇年の春、何ヶ所かに収容されていた多数のポーランド軍将校たちがソ連の秘密警察に殺害される「カティンの森事件」が秘密裡に起こっていた。チャプスキは奇跡的に生き延びたごく少数のポーランド軍将校の一人である。チャプスキはいくつかの収容所を転々としたあと、その年の厳冬を廃墟と化した元修道院に収監されて過ごすことになる。

明日への希望も断たれたなかで、囚人たちは各自が得意な分野について講義をし合うことを思いつく。それがせめても人間らしさを失わず、精神の荒廃から自分を守る方法であった。チャプスキが選んだテーマは絵画と文学、そしてプルーストの小説だった。他のテーマのときがそうだったように、『失われた時を求めて』をめぐるさまざまな話を真剣に聴く仲間たちの姿に感動したチャプスキは序文で書く。

いまでも思い出すのは、マルクス、エンゲルス、レーニンの肖像画の下につめかけた仲間たちが、零下四十五度にまで達する寒さの中での労働のあと、疲れきった顔をしながらも、そのときわたしたちが生きていた現実とはあまりにもかけ離れたテーマについて、耳を傾けている姿である。

当然ながらプルーストの本など一冊もない環境でチャプスキはすべてを記憶だけで語った。再びチャプスキの言葉を引こう。

わたしがなるべく正確に描こうとしたのは、プルーストの作品に関する記憶でしかない。だから、これは言葉の本当の意味では文学批評ではなく、わたしが多くを負っていた作品の思い出、私(ママ)が二度と再び生きて読み直すことができるかも(ママ)わからなかった作品についての思い出を提示したものである。

原書でもチャプスキの引用はすべてプルーストの原文(本書では翻訳)と照合できるのだが、それをつぶさに見てゆくと言いようのない感動に包まれるはずである。細かく言えば単語が違ったり抜けていたりするにせよ、肝腎な部分は細部も含めてよくぞここまでというくらい正確な引用なのである。

これほどに記憶するまで読んで初めて書物はそれを読む人間の精神を限りない豊かさで満たすのではなかったか。プルーストを読むとは読書の意味を絶えず私たちに問いかけることにほかならないとさえ言いたくなる。

薄い本ではあるけれど、プルーストに関する講義ノートを中心に据えた本書はじっくり腰を据えて読む読書にこそ醍醐味があることを思い出させてくれる素晴らしい書物である。解説や註の充実ぶりも十分評価に値する。

ただ、最後に言いにくいことをあえて書けば、明らかに誤訳とおぼしきところ、固有名詞の表記違い、誤植や脱字はそれなりに目についた。さらに、読みやすさを考慮して改行を増やしたと訳者は書いているが、プルーストの講義であるだけにその必要があったのか個人的には首を傾げざるを得ない。プルーストの世界への恰好の入門書であり、文学の基本に立ち返らせてくれる名著であるだけにそうした憾みが残らないわけではなかった。
収容所のプルースト  / ジョゼフ・チャプスキ
収容所のプルースト
  • 著者:ジョゼフ・チャプスキ
  • 翻訳:岩津 航
  • 出版社:共和国
  • 装丁:単行本(193ページ)
  • 発売日:2018-01-27
  • ISBN-10:4907986424
  • ISBN-13:978-4907986421
内容紹介:
1939年、「カティンの森」での大虐殺の前夜。ソ連の強制収容所で開催されたプルースト『失われた時を求めて』講義のすべて。

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初出メディア

図書新聞

図書新聞 2018年3月3日

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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