書評

『『失われた時を求めて』と女性たち: サロン・芸術・セクシュアリティ』(彩流社)

  • 2017/07/03
『失われた時を求めて』と女性たち: サロン・芸術・セクシュアリティ / 吉川 佳英子
『失われた時を求めて』と女性たち: サロン・芸術・セクシュアリティ
  • 著者:吉川 佳英子
  • 出版社:彩流社
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • 発売日:2016-03-31
  • ISBN:4779122090
内容紹介:
マルセル・プルーストは女性登場人物をいかに創造し、女性を通して何を表現したのか。『失われた時を求めて』の草稿などに探る。
『失われた時を求めて』旧プレイヤード版(一九五四)において使用された単語を統計的にまとめた大著E・ブリュネ『プルーストの語彙』(一九八三)第三巻「固有名詞篇」によれば、もっとも多く用いられるのはアルベルチーヌ(二千三百六十)。以下、姓のみの集計で不正確なものもあるがゲルマント、スワン、シャルリュス、ヴェルデュラン、フランソワーズ、オデット、ジルベルト……と『失われた時を求めて』の読者には親しい名前が続く。

そういうなかで、ヴィルパリジやロベール、ヴァントゥイユと言った重要な登場人物より多く出てくるのがカンブルメールという田舎貴族の名前である。第五篇「囚われの女」では十回と少なめだが、全篇に登場し、第四篇「ソドムとゴモラ」では二百八十一回の言及がある。

カンブルメールは、登場回数からするとノルポワやコタールより多いのに、比較的印象の薄い一家と言ってよい。本書の著者吉川氏は第一部「人物造形の過程——下書き原稿から探る」では彼らにとくに着目して、草稿段階からどのような変遷を経てカンブルメールとなったかを丹念に調べ、カンブルメール家が作品中で担っている役割を明らかにする。そうした着想の独自性と対象を扱う手さばきの慎重さは第二部「人物造形と表象——モデル・テーマ・文化背景」にも繋がっていて、読者は氏の研究が持つスケールの大きさをひしひしと感じることになるだろう。

第三部「プルーストとコレット——同時代を生きた二人の作家たち」ではプルーストとコレットに焦点を当て、二人に共通する点と異なる点が確かに描かれる。その際も、資料に対する吉川氏の目配りに抜かりはない。ほとんどの点で評者にも納得のゆく解釈であった。

しかし、評者がもっとも蒙を啓かれたのは全十章の半分を占める第二部である。とくに第五章「オペレッタとの関係」で説き明かされるオッフェンバック『美しきエレーヌ』や『地獄のオルフェ』などの軽演劇やカフェ・コンセールとプルーストとの親和性は、『失われた時を求めて』の重要な側面を理解するのに欠かせないと思っていただけに、我が意を得た気がした。第六章の「芸術とスノビスム——サロン文化のなかで」、第七章「文化としての結婚制度」も同様で、これは『失われた時を求めて』の世界をよりよく理解するためには欠かせない知識であろう。どうしてスワンは高級娼婦だったオデットと結婚したのか、サロンにおける藝術の意味とは何か、社交とはそもそもどういうことを意味するのか、スノッブとはそもそもどういう存在なのか。それらについて吉川氏は的確に説明する。本書がプルースト研究者でない一般読者にも有益なのはそうした基礎知識をわかりやすく教えてくれるからである。

そして、さらに本書の価値を高めているのは第八章「同性愛」である。性愛が『失われた時を求めて』において占めている重要性についてはどれほど強調しても足りないくらいだと評者は考えているが、その問題が容易に理解しにくいのは同性愛を多分に含んでいるからではなかったか。同性愛は現代では想像できないほど社会的には禁忌とされていた。キリスト教、ことにカトリックの影響力の強い社会ではなおさらである。ユダヤ民族と同じように、同性愛者は社会的には排除され抑圧された存在である。だがそれゆえに、と言うべきか、同性愛者は家族や社会のなかでは孤立する一方で、藝術の分野では他にまさった感覚を持ち、多様な生のありようを暗示する。吉川氏が「作家のジッド、グリーン、コクトー、ラディゲ、コレット、ユルスナール、ジュネ、音楽家のラヴェル、ドビュッシー、ショパン」と列挙しているように、世紀末の藝術家と同性愛は密接な関係にある。『失われた時を求めて』の前衛性の一つは、同性愛ならびに、同性愛者の心理や実態を、当時としては率直かつ大胆、そして、見事に描いた点にあった。吉川氏はそのあたりの事情をつぶさに読み解いてゆく。

総じて本書は、現代日本のプルースト研究のレベルの高さを証明しているだけでなく、一般読者にも知的刺戟を与えるという意味からも高く評価されてよい。

ただ、出版社に対しては注文がある。それは日本語がしばしば読みにくいという難点を編集段階で修正してほしかったということだ。ほんの一例だが、たとえば「ユベール若夫人ですか。律儀なユベール。でも彼はここにいない。私に紹介してもらえますか」「スワンさんだ。おお、スワン。お元気でしたか。私の方に来て下さい」などは翻訳文体のパロディとしか思われない。もし日本語がもう少しきちんとしていたら、評者は本書に満点をつけたことだろう。図書新聞2016年七月十六日号
『失われた時を求めて』と女性たち: サロン・芸術・セクシュアリティ / 吉川 佳英子
『失われた時を求めて』と女性たち: サロン・芸術・セクシュアリティ
  • 著者:吉川 佳英子
  • 出版社:彩流社
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • 発売日:2016-03-31
  • ISBN:4779122090
内容紹介:
マルセル・プルーストは女性登場人物をいかに創造し、女性を通して何を表現したのか。『失われた時を求めて』の草稿などに探る。

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初出メディア

図書新聞

図書新聞 2016年7月16日

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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