前書き

『欧米の隅々: 市河晴子紀行文集』(素粒社)

  • 2023/01/07
欧米の隅々: 市河晴子紀行文集 / 市河 晴子
欧米の隅々: 市河晴子紀行文集
  • 著者:市河 晴子
  • 編集:高遠 弘美
  • 出版社:素粒社
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2022-10-28
  • ISBN-10:4910413081
  • ISBN-13:978-4910413082
内容紹介:
渋沢栄一の孫にして、稀代の文章家であった市河晴子。その代表的著作である『欧米の隅々』『米国の旅・日本の旅』から一部を精選。注・解説・年譜等を付す。編者は仏文学者、プルースト翻訳家の高遠弘美。堀江敏幸氏推薦。

はじめに

最初に私が市河晴子の名前を知ったのはまったくの偶然でした。

二〇〇六年六月のこと。当時、明治大学に勤めていた私は偶々入った神保町の古本屋の棚に『欧米の隅々』なる本を見つけ、何気なく手に取って適当にページを開きました。それから会計をするまで三分も経っていなかったような気がします。浜の真砂に手を差し入れたら思いがけず貴重な宝を探し当てたような感じでした。

著者として背表紙に書かれていたのは、市河三喜と晴子でした(以下、基本的に敬称を省きます)。フランス文学を専攻したので畑は違いますが、著名な英語学者・言語学者として斯界に名を馳せた市河三喜の名前はもちろん知っていました。エッセイもいくつか読んでいたと思います。一九九〇年から十年間在籍した山梨県立女子短期大学で同僚だった市河三次教授が、江戸時代の儒学者市河寛齋の曽孫、書家市河米庵の孫である市河三喜の縁戚であることは聞いていましたから、三喜の名に惹かれて手に取ったのかもしれません。そのときはまだ晴子が私にとってこれほど(たとえば、明治大学の最終講義で晴子の文章の魅力を説くまでに)大切な文学者になるなど予想もしていませんでした。

その日、帰宅してからじっくり『欧米の隅々』(一九三三年)を読み始め、最初の「はしがき」と「旅程と感想」、最後の「ドイツよりアメリカへ」が夫の市河三喜(一八八六-一九七〇)の筆になる以外、つまり中心をなす六百ページ余りは妻の晴子(一八九六-一九四三)が書いた旅行記だということがわかりました。

と言っても、晴子が夭逝した長男三栄の後を追うかのごとく世を去ったのちに作られた二人の追悼文集『手向の花束』(私家版、一九四五年)を入手して読んだとき、晴子に関する三喜の以下の言葉に腰を抜かすほど驚いたのですけれど。


漢文調の文章(「欧米の隅々」の巻頭に載せた「旅程と感想」の如き)も書けば或は時々私の代筆をする時は打つて変つた文体を使ふこともある。〔略〕武藤長蔵君の還暦記念論文集〔正しくは「武藤教授在職三十年記念論文集」〕に「長崎と米庵及び寛齋」の一文を寄せたが実はあれは晴子の文章で〔略〕紀行・随筆・スケッチ以外にかういふ歴史物を書く筆も持つてゐた。

「昭和六年三月二十日、妻同伴にて東京を発し神戸より乗船、中華民国天津に向ふ」

こんな調子で書かれた「旅程と感想」だけでなく、市河三喜名義で書かれたいかにもそれらしい論文のうちにもじつは「妻」の晴子が書いた文章が混じっていたとはさすがに気がつきませんでしたが、本書ではそれは収録していません。夫の代筆をする晴子の才筆を感じて頂くよりは、ひとつでも多く、晴子自身の躍動感ある言葉に接して頂きたいと考えたからです。

市河晴子の文章に魅了された私は、単行本未収録作品も含めて可能な限り集めるとともに、晴子そのひとについて調べてゆきました。

その結果、晴子が渋沢栄一の孫娘であること、法学者穂積陳重と栄一の長女歌子の三女であること、何冊も傑作と評すべき本を書いていること、『渋沢栄一伝記資料』に収められた興味深い二十余りの文章も晴子によることなどがわかりました。

晴子については巻末の解説でさらに詳しく書きましたので、ここでは本書の内容について簡単に説明をしておこうと思います。

一九三一年三月、日本人初の東京帝国大学英文科教授として活躍していた市河三喜はカーン海外旅行財団から選ばれて欧米諸国の実情視察の旅に出ます。妻の晴子も同道します。次男の三愛を一九二六年に亡くしていた夫妻でしたが、長男の三栄(一九一七年生まれ)、長女の三枝子(一九二二年生まれ)を、十年親しく面倒を見てくれていた「女中」に託した上での出発でした。晴子はこう書いています。仮名遣いと漢字を現代風に改めて引きます。


私は三喜さんに「いっしょに行こうよ」と云われた時、「子供には相談してから定めるわ」と子供たちの室に行った。何だかくどくどと話して「父さんは一年間行く、母さんは冬までに帰ろう。八ヶ月の留守をしてくれるか」と尋ねた。「行くがいいやね」と同音に云って、三栄は「や、もう英語講座だぞ」と二階へ上って行った。突然の話にまぎれて、時間を忘れたりせぬ平静な調子が、いつもの栄ちゃんらしい。三枝子の方も「私もお勉強だ」と隣室へ行ったが、まだ十歳だし鋭敏な子だから、独りになってから悲しくでもなりはせぬかと思った途端に、唐紙をガラリと開けて、「ねえ。母様が洋行するのが世の中のためになるなら、一年行って来たらどう? 三枝子だって母様が偉くなるほど都合がいいんだから。八ヶ月よか一年行きゃあ、それだけぶんたくさん偉くなるでしょ」と云った。けなげなことをと思うべきなのに、その前に私は「オヤ私は今、世の中のためになんてそんな途方もない大風呂敷を拡げたかしら」と驚き、何と云ったかが思い出せぬので「ははあ、私も上っているわい」と顔を赤らめたのだった。


如何でしょう。この伸びやかさが晴子の本領の一つなのですが、十歳年上の夫のことを「三喜さん」と名前で書く晴子の自由闊達で率直な言葉遣いは、平等でしかも互いへの敬愛に満ちた気持ちのよい夫婦のありようを示しているのではないでしょうか。博大な教養に支えられた喚起力あふれる文体は言わずもがな、男女平等を地でゆくこうした晴子の言葉じたいがこの旅行記の風通しをひときわよいものにしているというのが最初に私が感じた印象でした。

晴子の書いた旅行記は、Japanese Lady in Europe というタイトルでロンドンやニューヨークの書肆から刊行もされ版を重ねてたいへんな反響を呼びます。

さらに、一九三七年に勃発した日中戦争に際し、いわば日米親善の民間外交を託されて単身渡米したときの経験をもとに綴られた旅行記に日本国内の紀行文を合わせて刊行された傑作『米国の旅・日本の旅』(一九四〇年、四四四ページ)も同様に、英訳されて出版されました。


本書は紙数の関係上『欧米の隅々』と『米国の旅・日本の旅』からあえて選んで一本に纏めたものです。いずれも甲乙つけがたい章から選ぶのは至難の業でした。ただ稀代の文章家だった市河晴子が綴ったみごとな紀行文のおおよそはわかるのではないかと思います。そこには女性の正当な権利を主張する熱き言葉も鏤められ、性を異にする私自身も叱咤激励される思いを何度も味わいました。現代にあって、もっとも必要とされる言葉はたとえば市河晴子から発せられていたのではないか。そんな気がしてならないのです。晴子の言葉はそれほど近くにあって二十一世紀を生きる私たちを慰藉すると同時に鼓舞し続けています。耳を傾けるのは今からでも遅くありません。
欧米の隅々: 市河晴子紀行文集 / 市河 晴子
欧米の隅々: 市河晴子紀行文集
  • 著者:市河 晴子
  • 編集:高遠 弘美
  • 出版社:素粒社
  • 装丁:単行本(400ページ)
  • 発売日:2022-10-28
  • ISBN-10:4910413081
  • ISBN-13:978-4910413082
内容紹介:
渋沢栄一の孫にして、稀代の文章家であった市河晴子。その代表的著作である『欧米の隅々』『米国の旅・日本の旅』から一部を精選。注・解説・年譜等を付す。編者は仏文学者、プルースト翻訳家の高遠弘美。堀江敏幸氏推薦。

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