書評

『西條八十全集〈第17巻〉随想・雑纂』(国書刊行会)

  • 2018/01/26
西條八十全集〈第17巻〉随想・雑纂 / 西條 八十
西條八十全集〈第17巻〉随想・雑纂
  • 著者:西條 八十
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(610ページ)
  • ISBN:433603317X
内容紹介:
随想・雑纂(唄の自叙伝我愛の記私の履歴書)文芸関係評論日記・書簡

若々しき老成

今回の全集を一冊づつ追ひかけてきて、今更ながらに西條八十の旺盛多彩な文学活動に驚嘆してゐるのだが、なかでも『アルチュール・ランボオ研究』と『訳詩』、それに『童謡』の巻には、当初予想してゐた以上の感銘を受けたことを告白しておきたいと思ふ。

西條八十が世を去った一九七〇年、当時早稲田の文学部に入学したてで、まだ村上菊一郎先生や新庄嘉章先生の授業を受けてゐなかつた一学生としては、初級のフランス語の授業で西條八十ならびにその死について耳にすることはなかつた。西條八十は日夏耿之介と同じく早稲田の大先輩であり、詩人であると同時に、夥しい数の歌謡曲や童謡の作者だといふことを知つてはゐても、自分が進むことになる仏文科教授であつたことやすぐれた訳詩をあまた物した仏文学者だつたといふことについてはほとんど知らぬままでゐた。八十の訳詩集を読むやうになつたのは、村上先生の授業で西條八十の名前を伺つてからである。吉江孤雁のエッセイを読むやうになつたのもその頃だつたらう。とはいへ、『アルチュール・ランボオ研究』を書店で見つけても買はなかつたのは、値段もさることながら、歌謡曲や童謡で知られる西條八十があのやうに大部のフランス文学の研究書を著したことに、生意気にもある種の違和感を抱いてゐたからではなからうかといふ気がする。村上先生の研究室にはよくお邪魔してゐたのだが、無知なる者の悲しさ、こちらから伺へばお話ししてくださつたに違ひないのに、荏苒と過ごしてゐたのだ。それだけではない。『ランボオ研究』の編輯を担当した宮田毬栄さんには、博士課程の学生のときに、岩瀬孝先生のお仕事に関連して何度かお目にかかつたことがあつたのに、やはり西條八十やランボオ研究についてのお話を伺ふことはしなかつた。宮田さんが敬愛する詩人大木淳夫のお嬢様だといふことを知つてご父君についてはいくつかお話をして頂いたにもかかはらず、西條八十やその著書についてはまつたく伺はうともしなかつたのである。悔やみてもあまりある愚かしい青春時代であつた。まさに、『全集 第十五巻』解説で上村直己氏がお書きのやうに、洟垂れ小僧のくせに「人気歌謡作詞家をランボオ研究家として認めることを許さない日本的アカデミズム」にどつぷりと漬つてゐたことを深く恥ぢるばかりである。

今回の全集で初めて腰を据ゑて『アルチュール・ランボオ研究』を繙き、私はそこにみなぎる西條八十のつよい情熱と意志の力を感じて、目頭が熱くなるのを禁じることができなかつた。

いまだから言ふ。ないしは今だからこそ言ふことができる。この書物は単にランボオ研究の基本的文献であるのみならず、権威主義に凝り固まつたアカデミズムの弊を逃れ、瑣末主義の泥沼から私たちを救ひだしてくれる稀有な書物であり、文学を愛しつつも文学研究なるものには疑問を感じる懐疑派の学徒も、文学や詩の世界に心ふるはせた日々を忘れ果てさほど意味があるとは思はれない「学術論文」を縷々連ねる学徒も、ひとしなみに就くべき書物であると。

ひとつ回想をはさむことをお許し願ひたい。「母音」といふ詩に関する西條八十の解釈を読みながら、私は村上先生の講義をありありと思ひ出した。まさに新解釈も含めて、村上先生は西條八十の『アルチュール・ランボオ研究』を援用してゐたのだ。あるいは先生はそのとき、西條八十の名前を出した上で諸説を紹介していらしたのかもしれない。我が身の迂闊さがここでも悔やまれる。

西條八十自身がランボオについて書いてゐる言葉をそのまま借りるなら、「われわれが目前に見ているのは、不断に動きまわる一個の魂であり、その苦悩、その歓び、その怒り、その悲しみは、類いない純粋さでわれわれの心を打つ」のであつて、かういふとき、私たちは成熟といふ言葉の意味を十全に理解することができるだらう。天才少年ランボオについて語る八十の言葉は若々しく、しかも有り得べき老成に達してゐる。ここでの西條八十は篤実なフランス文学者であるだけでなく、自らの内面の声に誠実に向き合はうとする文筆家として私たちの眼前に立ち現れる。半世紀以上にわたつて詩人かつ俗謡作者として生きてきた西條八十が学匠詩人としての存在をかけて、十代で詩を捨てたランボオと真摯に対峙してゐるのだ。それは言葉の選び方にも影響してゐて、ここに引用する余裕はないが、『アルチュール・ランボオ研究』には中原中也のランボオとも小林秀雄や堀口大学や金子光晴や村上菊一郎のランボオとも違つた西條八十だけの、すこぶる溌溂として素直な、それでゐて苦渋と諧謔と皮肉に満ちたランボオがゐる。文庫本でいいから西條八十の訳したランボオを断片もあはせて収めた『西條八十訳ランボオ詩集』があればどんなにいいだらうと思はずにはゐられない。

と同時に、西條八十はランボオ以外の訳詩でも卓越してゐる。典雅な古語を生かしたものもあれば、目と耳に心地よい文語体もあり、古謡ぶりを強調したもの、七五調の心地よい響きを多用したものも含めてさまざまであるが、私が愛誦してやまないのはたとへばこんなジャン・リシュパンの訳詩である。

歌へよ、夜は短かかろ、

昔、真黒なお爺さんがゐました、

夢でこさへたマントを着、

夕《ゆふべ》の靄の帽子をかぶり。

歌へよ、夜は短かかろ。

『アルチュール・ランボオ研究』が円熟した老文学者の手になるものだとすれば、かうした訳詩は若い西條八十が童謡作者として、そのありあまる才能を大きく開花させた時期に重なるもので、その二つながら、老齢にさしかかつた現在の私には比類ないものとして映る。

童謡が収められた第六巻を開くと、胸をしめつける甘酸つぱいやうな気持ちが記憶の底から蘇つてくる。大正期に少女時代を送つた、明治生まれの亡母にとつて、西條八十の作つた童謡はわけても親しみを覚えるものであつたらしい。亡母が歌つてくれた八十作の童謡はいまなほ私の耳朶に響く。「かなりや」「お山の大将」はむろんのこと、「きりぎりす」(きりぎりす/きりぎりす/そつと捉へて/姉さんの/紅い手函に/忍ばせた/ゆうべの夢の/きりぎりす)や、「電信柱の帽子《しやつぽ》」(電信柱の/言ふことにや/「夏が来たから/僕だつて/紺の帽子《しやつぽ》を/かぶらうか」)その他いろいろ。かほどに記憶に残る詞を書いた童謡作者は他に例がない。

西條八十はもつと評価されていい。その膨大な仕事を振り返ることは、書かれるべき未来の日本語による詩のためにも必要不可欠である。さう考へるのは偏屈な私だけではないことを祈りたい。
西條八十全集〈第17巻〉随想・雑纂 / 西條 八十
西條八十全集〈第17巻〉随想・雑纂
  • 著者:西條 八十
  • 出版社:国書刊行会
  • 装丁:単行本(610ページ)
  • ISBN:433603317X
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随想・雑纂(唄の自叙伝我愛の記私の履歴書)文芸関係評論日記・書簡

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