ためらいが吹き込む新しい風
書店で本を見つけ、「おお久しぶり」と声が出そうになった。10年近く前、新進の民俗学者として大きな賞を受けたが、次作がとんと出なかった。ある日大学教員をやめ、郷里で介護士として働いていたのだ。理由はさだかでない。が、民俗学者としての〈癖〉が、介護現場でいつしか蠢(うごめ)きだす。そう、認知症を患う高齢者からの「聞き書き」である。施設での勤務は、2人で10人の食事・服薬・排泄(はいせつ)・入浴の介助、おむつ交換、それに食器洗いと記録付け。1人の世話でも苦労なのに、これは尋常でない環境だ。そのさなか意地でも「聞き書き」を続ける。時代にもみくちゃにされながらも必死で平衡をとってきたその生き様を、体の奥深くに蓄積されながら見過ごされてきたそのぎりぎりの知恵を、証言として書き留め、また自らへの教えとして受けとるために。そしてその歓(よろこ)びを相手に贈り返すために。
そこに浮かび上がってきたのは、「傾聴」「共感」「受容」という観念にがんじがらめになったケア(「聴き取り」)の歪(いびつ)さであり、一方でテーマを先に設定する民俗学調査のまなざしの狭さだった。そこで始めたのが「テーマなき聞き書き」。「驚く」ことを封印しなければやってられないほど苛酷(かこく)な現場で、それでも一人ひとりがくぐり抜けてきた途(みち)に「驚きつづける」。なんと、そこは「ワンダーランド」だから、というのだ。
昔とった杵柄(きねづか)だからだろう、民俗学の話になると言葉が心地よく風を切る。が、介護の話はためらいや迷いで千々にもつれる。彼女はそれでも後者に身を傾ける。そこには、介護と民俗学の双方になにかとてつもなく新しい風が吹き込みそうな気配が漂う。
「女が女を演じると何かが足りない」とかつての名優・杉村春子は語ったが、この本は、ケアワーカーがケアをするとき、民俗学者が調査をするとき、足りないものが何かを深く考えさせる。