後書き

『客観性』(名古屋大学出版会)

  • 2021/08/17
客観性 / ロレイン・ダストン,ピーター・ギャリソン
客観性
  • 著者:ロレイン・ダストン,ピーター・ギャリソン
  • 翻訳:瀬戸口 明久,岡澤 康浩,坂本 邦暢,有賀 暢迪
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2021-08-17
  • ISBN-10:4815810338
  • ISBN-13:978-4815810337
内容紹介:
客観性とは何か。科学はいかにして「客観的なもの」と向き合うようになったのか――。近世の博物学や解剖学から、写真の衝撃を経て、現代のナノテクノロジーまで、科学者の実践や「認識的徳」の展開をたどり、客観性の歴史を壮大なスケールで描き出した名著、待望の邦訳。カラー図版多数。
科学的客観性、その歴史は驚くほど短い(客観性は新しい)――2007年に出版され大きな議論を巻き起こした科学史の問題作、ロレイン・ダストン/ピーター・ギャリソン『客観性』の邦訳がついに刊行。その内容を、「訳者あとがき」から一部抜粋して紹介します。

科学において「客観性」は、いつどのように誕生したのか

科学において「客観性」は、いつどのようにして誕生したのだろうか。これは一見すると奇妙な問いである。科学的であるとは、そのまま客観性を意味するのではないのか。多少なりとも科学史になじんだ者なら、近代科学が誕生したとされる17世紀に「客観性」も生まれたはずだと考えるかもしれない。それに対して本書では、「客観性」が生まれたのは19世紀半ばのことだという議論が展開される。そもそも「客観性(objectivity)」という用語が現在のような意味で使われるようになったのは19世紀になってからのことだという。だがもっと重要なことは、この時期に科学者たちが自然を観察し、知識として描写するやり方が変わってきたことである。19世紀初頭、科学者たちは人間から徹底的に切り離された知識を求めはじめた。そのため彼らは、自らの「主観」が知識に混入しないように自己を律し、さまざまな装置を用いてあらゆる人間の介入を排除しようとした。つまり「客観性」の誕生は、科学研究の現場における実践の変容と深く関わっているのである。

科学者の「見る」という行為

そこで本書で注目するのが、「見る」という科学者の行為である。科学者たちは自然をどのように見てきたのか。この問いに対して著者たちは、科学的図像をまとめたアトラスという書物群から読み解いていく。科学者たちは、つねにアトラスを参照することを通して、ものの見方を学んでいく。


そして同時代の科学者たちと同じように研究対象を見ることによって、知識を共有して蓄積することが可能になる。ものを見るとは、自然をそのまま受け取ることではない。あるいは人間の側が、あらかじめ持っている世界観にもとづいて自然を解釈することでもない。それはアトラスの助けを借りながら観察を繰り返すことで、ものを見る眼を鍛え上げえるということである。それだけではない。見ることは手ともつながっている。観察結果をスケッチし、アトラス図版として仕上げていく。カメラ・オブスキュラの像をもとに図像を描く。写真機で瞬間を撮影するための装置を組み立てる。つまり科学者が自然を見るということは、彼らの身体実践と深く結びついているのである。このような実践の基盤となっているのが、著者たちが「認識的徳」と呼ぶ科学者の心身に染みこんだエートスである。「客観性」とは、そのような認識的徳のひとつにほかならない。そしてさまざまな認識的徳が登場し、互いにぶつかり合いながら科学が展開していく過程をたどることこそが、本書の課題なのである。

自然の世界と人間の世界とを結びつける科学者たちの実践

このような本書のアプローチは、多くの点で従来の科学史とは異なっている。そもそも科学とは、自然を認識し、知識として表象することによって他者と共有する営みである。したがって伝統的な科学史が問題にしたのは何よりも科学の理論的内容であり、その思想的背景であった。あるいは思想形成をうながした社会的文脈に注目する社会史的アプローチも、科学史の重要な歴史叙述のひとつである。もちろん本書でも、カントをはじめとする思想の影響や、科学者の職業化のような社会的文脈についても論じられている。だが本書の語りの中心にあるのは、これら人間の世界の内部で起こっていることではない。著者たちにとって科学とは、自然の世界と人間の世界とを結びつける科学者たちの実践によってつくりあげられるものである。だからこそ本書では、科学者のスキル、テクニック、わざ(アート)が繰り返し議論の焦点となっている。そしてかつて芸術と一体だった科学のあり方や、近年になってふたたび工学を介して芸術と近づいていく科学の現状について論じられているのである。

本書の著者の一人、ピーター・ギャリソンは、1990年代以来、実践に注目した科学史研究を牽引してきたハーヴァード大学の科学史家である。とくに『イメージとロジック』(1997年)では、画像と数値化という二つの流れから現代物理学(とりわけ原子核・素粒子実験)の展開を論じ、科学論(Science and Technology Studies)にも大きな影響を与えた。邦訳としては『アインシュタインの時計 ポアンカレの地図』(名古屋大学出版会、2015年)がある。日本でも実験をめぐる科学論のレビュー論文などでしばしば言及されてきたので、ギャリソンの名前はよく知られていると言ってよいだろう。一方、ロレイン・ダストンは、18世紀の確率論や初期近代の博物学における驚異など、幅広い研究をおこなってきたアメリカ出身の科学史家である。邦訳された著書は本書が初めてだが、いくつか日本語に翻訳された論文がある。長年ベルリンにあるマックス・プランク科学史研究所所長を務め、多くの刺激的な共同研究を組織してきた。現在は名誉所長である。なお同所は、70人以上の科学史家を擁する世界最大規模の科学史の研究センターである。2019年1月に瀬戸口がベルリンを訪問した際に、ダストン氏は快く時間を割いてくださり、翻訳についての質問に答えてくれた。この場を借りて感謝したい。

とてつもないスケールの歴史

現代物理学史と初期近代科学史を専門とする二人によって書かれた本書は、時代においても分野においてもきわめて広範囲の事例から成り立っている。17世紀の奇形研究にはじまり、18世紀の博物学と解剖学、19世紀の神経科学、雪氷学、流体力学、細菌学、発生学、感覚生理学、心理学、数理論理学、20世紀の科学哲学、理論物理学、放射線医学、原子物理学、脳波研究、天体分光学、人類学が取り上げられ、現代のナノテクノロジーやデジタルアトラスで結ばれる。近年の科学史ではほとんど見られない、とてつもないスケールの歴史研究である。科学史に限らず現在の歴史研究のほとんどは、時代や地域を限定し、出来事のあいだの因果関係を明らかにする実証的な叙述スタイルを取っている。だが本書は、そのようなミクロな因果関係からは見えてこない大きな転換をとらえようとしている。そこから見えてくる歴史像は、これまでの科学史が示してきたものと大きく異なっている。それは単一の原因を特定することはできないが、少しずつ変化がはじまり、最後には雪崩のような大きな奔流となる緩やかな転換だという。それはクーンの科学革命のような断絶的な転換でもない。新しい認識的徳が登場したあとも、分野によっては旧来の徳が依然として存続していく。しかも旧来の認識的徳は、新しい認識的徳の存在そのものによって変容を余儀なくされていく。このように著者たちにとって科学とは、多数の科学者たちがそれぞれ異なる認識的徳を実践することによって織りなされる多元的な営みである。このような歴史像は、無数の人間がつくりあげる無数の出来事からなる歴史をどのように叙述するかという問題にとっても示唆に富むものである。

以上ここまで、本書の科学史にとっての意義を述べてきた。とはいえこれだけのスケールの著作である。本書からは、読み手の問題意識によって、さまざまな論点を引き出すことができるだろう。美術史や視覚文化論の観点からは、また違った側面が重要になってくるのではないか。もしかしたら訳者のあいだでも、読み方は必ずしも一枚岩ではないかもしれない。読者が自分なりに本書を読み解き、それぞれにとって重要な論点を深めていただけたらと思う。

[書き手]瀬戸口明久(京都大学人文科学研究所准教授)
客観性 / ロレイン・ダストン,ピーター・ギャリソン
客観性
  • 著者:ロレイン・ダストン,ピーター・ギャリソン
  • 翻訳:瀬戸口 明久,岡澤 康浩,坂本 邦暢,有賀 暢迪
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2021-08-17
  • ISBN-10:4815810338
  • ISBN-13:978-4815810337
内容紹介:
客観性とは何か。科学はいかにして「客観的なもの」と向き合うようになったのか――。近世の博物学や解剖学から、写真の衝撃を経て、現代のナノテクノロジーまで、科学者の実践や「認識的徳」の展開をたどり、客観性の歴史を壮大なスケールで描き出した名著、待望の邦訳。カラー図版多数。

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